『広い世界と2や8や7』永井祐 を読んで。

 歌集を読み終えて、ふと見ると、白い表紙に縦に引かれた銀のラインが 光る。手にとって動かすと光は虹のように七色に変化する。
 正直に言おう。この歌集の読み方がよくわからなかった。立って読むのか座って読むのか電車で読むのか山で読むのかしばらく僕は座って読んでいたが、わからなくなって部屋の中をぐるぐる歩きまわり読んだ。そうして2回目に読んだときに気になった歌へ付箋を貼っていった。
 けれど、よくわかっていない。わからないまま感想を書く。

よれよれにジャケットがなるジャケットでジャケットでしないことをするから (p6)  

 巻頭歌。                              「ジャケット」が1首に3つ出てくる。名詞をリフレインする。「ジャケット」が”鳴って”いるようである。「ジャケット」でしないことってなに?と思う。ふつうに読めば「ジャケット」を着た私が「ジャケット」の姿ではしないことをしたということなのだろうけど、「ジャケット」とリフレインされることで、あたかも「ジャケット」そのものが「ジャケット」の領分を超えたことをして、よれよれになってしまったようにも読める。そこが面白い

ライターをくるりと回す青いからそこでなにかが起こったような (p7)

 炎は赤やオレンジ。でも青い炎は怖い。歌には「ライター」をくるりとまわしたとしか書いていない。2句目と3句目の間にある言葉が欠落していて、そして「ような」で終わっている。だから何も起きていないのだろうけど。けれど句の隙間の瞬間を炎の揺らぎのように見るようである

プライベートがなくなるくらい忙しく踏切で鳩サブレを食べた (p8)

 そもそも踏切で鳩サブレを食べる人もいないだろうに、プライベートがなくなるくらい忙しくって?けれど、映像的に想像してしまう。踏切は降りていて、今まさに電車が通過するところ。人も車も待っている。バリバリと粉をまき散らしながら食べる。それはプライベートがなくなってもよいくらいに鳩サブレを食べることで拒否している何かがあるようにも見える

白い大きな箱の中にいて僕たちの話題は河村隆一になる (p35)

 「白い大きな箱」という比喩に「河村隆一」という固有名詞。
「河村隆一」は話題の流れの中のその瞬間であり、僕たちにとって重要なのはその時間であって「河村隆一」ではないだろう。青春を感じる。と思っていたら

ゆうがたの動物園で僕たちの話題は河村隆一になる (p42)

 「河村隆一」とはなにか。「河村隆一」は僕たちの嗜好性であって社会的な要請ではない。そうやって僕たちはうたに組み込まれた僕たちとして社会的メッセージ性を発するのを拒否している。そんなふうにも見える

仕事してするどくなった感覚をレールの線に合わせてのばす (p38)

 レールの線があるから伸ばせる感覚。それは自分の得た感覚さえもなにかのレールの線にあわせさせすれば感覚はどこまでものびてゆくよう。けれど、あくまでレールの線にあわせる技術的な感覚なのであって自らがその感覚をつくっていくような積極性はないし、そういった価値観そのものが除外されている。

金色に砂が光っているようなボタンをしまう夏の夕方 (p45)

 美しい歌である。金色と夏の夕方が響く。前の歌にスーツボタンが取れてしまったとあるからそのボタンのことであろう。ボタンにはいろいろな思い出が込められていて、その思い出が砂のように光っているようである。

目をつむり自分が寝るのを待っている  猫はどこかへ歩いていった (p60)

 目をつむっているのはわたし、待っているのは猫。そうして2文字空白である。眠ってしまった時間が目覚めたときに記録される。もう猫はいない。いたものがいなくなる時間。                      ところで、この歌集には猫がよく出てくる。例えば

雪の日に猫にさわった 雪の日の猫にさわった そっと近づいて (p16)
体当たり猫がしている 猫が体当たりしている 光の会話 (p87)

 猫は歌集の中を渡る。

そのときはドビュッシューとか聴きながら桜の中をうろうろしたい (p75)

 「そのとき」は春。『月の光』のような音楽の鳴る桜の中を迷うようにうろうろする。エンディングのような美しい歌だ

公園へチーズバーガー持っていき暗くてみえないベンチにすわる (p79)

 暗くて見えないから夜だと思う。ひとり公園のベンチででチーズバーガーを食べる「暗くてみえない」から手探りでベンチをさがし、座る。
 わたしひとりだけがそこにいる。チーズバーガーを食べる私がいる。
 この孤独の延長線にベケットを感じる(のはわたしだけか)

スターバックスコーヒーのふたを手に乗せる 冬の中には台形がある (p94)

 下句がよい。この台形はスターバックスコーヒーのカップの影であろうか
それとも何かほかのもの。台形としか書かれていないのに光や影を感じる。
上句の「スターバックスコーヒーのふた」にかすかな温かみを感じながら。

フードコートでうどんを食べた僕たちは明るい光の花になりたい (p118)

 どこかのショッピングモールにあるフードコートだろうか。
たくさんの人、家族連れや友人が食事をしている。うどんを食べて人心地つくそのとき、その気持ちが明るい光の花になりたいと思わせるのだろうか。
 「僕たち」とあるのは仲間とのうどんつながりの連帯感だろうかささやかな幸せ、ささやかだけど幸せを感じることを伝える

カーテンを半分開けた部屋のなかビニールの音ときどきしてる (p128)

 風が吹いている。でも強くない風、そしてビニールの音がするところに
ささやかな生活がある。カーテンも全開ではないところにつつましやかな生活。けれど、わたしの生活。

冬のなか立体的に見えてくるきみとビスケットを選びたい (p168)

 冬になったから立体的に見えてきたのだろうか。それとも冬に、立体的に見えてきたのだろうか平面的だったきみがわたしのなかで立体的に見えてくる。それだけで冬は過ごせる。
 そのきみと、一緒に食べるビスケットを選びたいのである。「暗くてみえないベンチにすわ」ってチーズバーガーをひとりで食べる歌と対比してしまう。

 この歌集に強い主張は見えない(ように私は思った)。作中主体のつぶやくような願いや感想がうたわれる。作者の「わたし」が持つ強い感情を除外し事実とそこに即した心の動きだけを即物的に書く。ある意味「写生」である。うたが強い社会的なメッセージを帯びることを注意深く回避しているようだ。

キャッチャー・イン・ザ・ライ的なことを僕はして帰りに買ってきた参鶏湯(サンゲタン) (p89)

 作中主体はホールデンのようにそういう既成の社会に鬱屈を持ち反抗するが、下句ではあくまで個人として回収する。社会的な連帯を声高に叫んだりはしない。その個人というのは作者の化身としての特定の私ではなく不特定のわたし。

 読み終えて、宙ぶらりんな気持ちになる。感想を書こうとして無理やり自分の読後感を定義しなければならない気持ちになる。確かめるため、第一歌集の『日本の中で楽しく暮らす』を読んでも、宙ぶらりん感はこの『広い世界と2や8や7』のほうが強い。この宙ぶらりん感の正体はまだつかめない。

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