『バックヤード』魚村晋太郎 第三歌集を読む

魚村晋太郎氏の第三歌集『バックヤード』について
以下にわたしの好きな歌の感想を書く。
十首にしたかったのだがおさまりきらなかった。
手元の歌集にはもっと多くの付箋を貼ってある。
魚村氏の歌は言葉のイメージが強力で読み手の心が引き寄せられていく。
まるで引力のように。

あたまのなかにながいしづかな廊下があるコンコースゆくはるの深更  p6

目を閉じて歌の景を思い浮かべるうちに自分の中へ降りてゆくよう。
気がつけば読んでいるわたしも「ながいしづかな廊下」に立っている。
結句の深更が効いている。

無人機のにぶき亀頭はじふぐわつの気圏を擦る(やめないで、まだ)  p15

タリバンやアルカイダを爆撃するアメリカ軍の無人攻撃機の形態を    想像する。「擦る」やかっこ内の言葉が性的な状況を喚起する。
戦争=暴力と性という一見相反するものが死を通じてつながっている。
旧かなの「じふぐわつ」と(やめないで、まだ)という会話のアンバランスさが滑稽なようで歌全体を皮肉で恐ろしいものにしている

予報円があなたの街へ移るころまたつよくなる窓の風雨は p37

あなたの街とわたしの街は予報円が重ならないくらいの離れた場所にあるのだろう。予報円があなたの街に移ればわたしの街からは予報円ははずれるはずだが、けれども私から見える窓の風雨は強くなっている。それはあなたから届く風雨のようで。窓をばたばたと揺らす風の音と窓にあたり流れ落ちる雨があなたと私の関係を想起させる。

HIROSHIMAもFUKUSHIMAも島(アイル)ではない。手すりを青い蜥蜴がすべる  p52

歌は発見のような形をとりながらHIROSHIMAやFUKUSHIMA(このローマ字表記も含めて)象徴化し矮小化することを批判的に見る。手すりをすべる青い蜥蜴には暴力や死やがはりついている。

聞こえないだけだ、けれどもその声のぬしは連翹の岸辺にはゐない  p54

「聞こえないだけだ」と言いつつ「声のぬし」を探す。
連翹の黄色い花がいっぱいに咲く春の岸辺。それはなにかぼんやりとした能の幽玄の空間を思い起させる。ひとり岸辺に立つわたしの姿が引きのカメラで見える。

月の裏のクレーターにもことごとく名はあり夜をゆく水昏し p59

月は地球に常に同じ面を向けている。人から見える月はいわゆる月の表であり、その暗いところは海に名付けられる。見えない月の裏も同じように名付けられる。それは自身の昏いところに名づけるように。月の夜をひとり歩くようだ。

からだよりゆめはさびしい革靴と木靴よりそふやうにねむれば  p68

「からだ」という言葉に性的なふたりの関係が結びつく。けれどゆめの中ではひとりきり。だからよりそう。けれどその寄り添いもまた「革靴」と「木靴」のような関係。そのさびしさを「革靴」と「木靴」として表現しているところが切なく美しい。

消した火をふたたびともす(同じ火ぢやないけれど)春の闇はやはらか p77

セクシャルな歌。ともされる火はからだの中にあって触れ合うからだの
まわりは闇のよう。けれどその闇も春にあってやはらかく感じられる。

プラネタリウムの銀の半球がぬれてをり雨の欅のさわぐむかうで   p105

プラネタリウムから呼び出される「銀の半球がぬれてをり」がよい。
外は雨。そしてわたしは室内で星空を見上げている。
星いっぱいの空も雨に濡れて光る。星と雨は同時には存在しえないものなのであるが、それを景としてひとつの歌の中にうたう。星のまたたきが欅のさわぎと響きあう。

紫陽花をつめたくゆらすドローンを墜落させた少年の指   p110

最後まで読み、上句に戻れば、「紫陽花をつめたくゆらす」のはもう
無垢な少年の指ではない、すでに「ドローンを墜落させた」指。
紫陽花のエロスとタナトスと遠くから暴力性のイメージが響いてくる。

しゆんだのとあさいのどちらにすると訊く祖母にしゆんだのと答ふ小声で p132

「路地と蒟蒻 マラソンリーディング2015より」とある。この一連は魚村氏の声を通して聞けばさらに味わえる。(先日機会があって聞かせていただいた)「しゆんだ」という句が一連の中で何度もリフレインされる。
あえて小声で答えるときの、擦れるようなサ行の音が声にエロチィックな感覚を与える。そうして祖母とわたしのやりとりの中にひとつの生のつながりのようなものを感じる。

試験管の口すれすれに吹く少女ちひさな風は音をうみだす   p159

美しい歌。「口すれすれに吹く」が歌に身体性を与えている。
ちいさな風だからそこから聞こえる音もとても小さいのであろう。
読み手に耳をすまし少女の出すその音を聞きたくなる。

くらい壁に横たへられた梯子ありのぼつたひとはここにはゐない   p163

初出の総合誌を読んだときからとても好きな歌。
「ここにはゐない」ことがのぼつた人がいたことととその人はもう
のぼって行ってしまったことを表している。と、するなら「くらい壁」に
梯子を横たえたのはのぼらなかった人なのか。
そして「くらい壁」をのぼっていった先は明るい場所なのだろうか。
梯子が横たえられた壁のまわりには不在の人が影のようにいくつもあるようで読み手の妄想が膨らんでゆく

初台を過ぎるあたりまで窓の外をうかがふカーテンの隙間をあけて  p167

夜行バスに乗り東京から関西へ戻るところであろう。
バスターミナルを出発してからわずかな時間。
「うかがふ」という言葉の選択が東京の夜から離れゆくいくつもの思いを表している。それは「カーテンの隙間をあけて」という描写につながる。
ほんのわずかな隙間に顔を寄せて見ている。
窓からの夜の冷気が頬につたわり感じる。

誤爆されたバスが着くはずだつた町の夜明けをおもふあけの睡りに  p168

歌集の最後の歌。作中主体の乗るバスはまだ誤爆されていない。
例えば中東の無人爆撃機が空爆をしたバス。
この日本で誤爆されるという状況はないはずなのだがその現実は果たして
今ここなのだろうか。夜が明けようとする眠りのなかにこれから誤爆される
バスに乗っているということが現実なのではないだろうか。
そういう認識の危うさが伝わる。

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