山階基さんの|note(ノート)「そんなのありですか?」を読んで。

山階さんのnoteを読んで、
ふつふつとわいてきたことをツイートしようと考えていたら
とてもツイッターでは書けるものではなくなってしまった。
初noteしてみる。そしてツイッターに投稿する。

短歌(芸術)とはxxである(べき)という考え。
 例えば
・短歌は57577であるべき
・短歌は31音であるべき
・短歌には韻律があるべき
・短歌は一首で作品として成立すべき。(たとえ連作であっても)
・短歌は真剣であるべき。
・短歌は作者主体に即しているべき。
・短歌は短歌ならではの表現であるべき
・短歌は極力事実の描写であるべき。
 (極力うそ=物語を書かない)
・短歌は読む人がわかるように書くべき
・短歌の歴史は継承されるべき

まだまだあるだろう。
そして、それらはいくつかにカテゴリされる
①短歌という文藝の本質であること
②短歌作家にとって本質であること
③人間存在の本質として必要なこと
おそらく今回のやりとりは①と②が整理されていないことが
問題のように思う。

というよりも私個人としては①なんてものは基本存在せず、       ②と③だけだと思っている。(アナーキーにすぎるか)

事後補足)といいつつも短歌はやはり31音は基本だとは思う。
     そこは①だろう。

①のように②を語る人が多数いる。
でも芸術なんてそのひとが好きなものを
たまたま他の人も好きだったということ連鎖して発生したものに過ぎないと考えている。当然、そこには長い時間の中で好まれやすい表現のテクニックというのは発達してきた。そしてそのテクニックがいつの間にか本質のように語られるようになる。

③について必要なことは唯一、短歌によって存在を否定される人が発生しないこと。あるいは、存在を否定されるものがいるかもしれないということを常に意識の中に持ちつつ作品をつくること。これについてとてもよく書かれたひとつの小説がある。太宰治の『親友交歓』である。

<<けれども、まだまだこれでおしまひでは無かつたのである。さらに有終の美一点が附加された。まことに痛快とも、小気味よしとも言はんかた無い男であった。玄関まで彼を送って行き、いよいよわかれる時に、彼は私の耳元で烈しく、かう囁いた。「威張るな!」>>

ここでは内容は説明しない。この「威張るな!」の意味は是非小説を読んで欲しい。そしてこの小説に関して、高橋源一郎が1992年出版の『文学じゃないかもしれない症候群』に書いている。私はここでこの小説を知った。
そして②を③のようにとらえる人もいる。
その短歌作家にとって本質と考えることが否定されたとき、その人の存在そのものを否定されたと感じることになるから。
でも、所詮、上記にように並べてみれば一覧化してカテゴライズできるし、ほとんどが②であると思う。
短歌作家にとって本質であることと人間存在にとって本質であることとはノットイクォールだ。それが論理と考える。
その論理の下でそこには批評が生まれる。あくまで自信の短歌観に即した作品解釈があるだけでそもそもその人の短歌観にその歌を批評する尺度がなければ好きかきらいかだけである。
批評される側もあくまでそれは作者個人の短歌観として受け止めるだけであり、存在の否定ではない。
100人がいて99人がきらいといってもひとりが(たとえそのひとりが作者本人であったとしても)いいと思えばその作品はその人にとって存在価値があるものなのだ。けれど、それもまたその人との存在価値とは分けて考えるべきものであると考える。その歌が作りだされるその瞬間にだけその歌とその歌をつくる作家はリンクしていて重なりあっているが生み出されたあとはその歌はその作者本人を出自とはするが独立したものと考えるべきである。自分のこどもは自分の分身ではないのと同じように。
で、作者本人がその歌を抱きしめて孤独を感じるならその孤独は表現する作者が引き受けるべきものなのである。

歌会などで、共通の了解事項のようにある一定の基準に沿って歌が批評され、歌会参加者に共有される場面がある。そこに違和感を感じるときがある。批評の技術というものは確かにある。その技術によって歌が整理評価されることで未熟な我々は歌を味あうことができる。しかし、その批評によって歌の読みや評価が固定化されるのであればそれは芸術が本来批評すべき政治的行動に堕ちてしまう。これも「威張るな!」である。
ただし、一点、歌会はみなが表現する側「威張る」力を持つ側である。そういう意味では、その基準を疑わず同調するものは「阿るな!」であったりもする。

話がそれた。でなにかというと、

きらいな歌なのであれば単に「きらい」と言えばいいのである。
そのうえでその歌のどこがきらいと思うのかを論理的に説明すればそれは批評になる。そこから批評的なやりとりは生まれる。
けれど、きらいなことをまるで①のように語るならそれこそ繰り返しになるが「威張るな!」なのだ。

SNSが発達してきていわゆる日本人の悪いところが強化されてきている。
それは短い言葉で伝えようというするときの補助具のように使われる常識というやつ。あるいは以心伝心。そういった身内意識の寄り集まりに違和感があるからこそ何かを表現しようとしはじめたのにその表現によってなにかを排除しようとするなら本末転倒だし、大きな話になるが80年近く前のことを繰り返すことになるような気がするのである。

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