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東日本大震災と向き合うきっかけをくれた存在


東日本大震災

東日本大震災とは、2011年平成23年)3月11日14時46分に発生した東北地方太平洋沖地震およびこれに伴う福島第一原子力発電所事故(放射能汚染)による大規模な地震災害(震災)である。

Wikipedia

当時、私は小学生2年生(7歳)。
卒業式の予行練習のため1〜4年生は午前のみ授業。午後は、帰宅。という日だった気がする。
大地震が起きた14:46頃、弟の塾の送迎の付き添いで母の車に乗り込んだ瞬間だった。
地響きと公園で遊んでいた友達の叫び声や悲鳴。
今でもあの時の光景を忘れることはない。

地震発生からの生活

連日、テレビや新聞で地震の状況が報道されると同時に何度も同じCMが繰り返される。
私が好きな番組やアニメはニュースにより放送されなかった。

「マグニチュード9.0の大地震が発生した。」
「原子力発電所が爆発した。」
「放射線物質が放出した。」

当時の私には、なぜここまで大人が慌てているのか。なぜ、連日同じ内容のニュースを繰り返し放送するのか。
なぜ、私の好きな番組が放送されないのか。全く分からなかった。
そして、小学校からは無期限の休暇の連絡があった。
学校に行かなくていいんだ!毎日ゲーム出来るんだ!
勉強もしなくていいんだ!毎日遊べるんだ!
とても喜んだのを覚えている。

学校再開

いつから学校が再会したのかよく覚えていない。
学校再開と聞いた時、喜んだのか悲しんだのか。それすらも覚えていない。
気づいたら学校が再開し、何不自由なく、小学校、中学校、高等学校と私の学生生活が過ぎていった。

今の生活

当時7歳だった私は21歳になった。

常に脳裏に浮かぶ大震災の存在


何不自由なく生活できたのは事実だが、東日本大震災の存在を忘れて生活することはできなかった。

向き合うきっかけをくれた存在

大きくなるにつれ、私が見る景色は震災の背景を感じさせないほど急成長し、街の景色は変わっていった。
東日本大震災が起きたことは知っているが、当時の記憶で止まり、私がみた景色で満足していた。
そのままこれからも何不自由なく生活し、死んでいくのだろうと思っていた。

私はサッカーが好きだ。
そんな繋がりから出会った存在が「いわきFC」だった。
出会った時は2017年。「いわきFCパーク」クラブハウスが完成したのがきっかけだった。
そして、初めて試合を見たのが同年に行われた、
いわきFC VS ベガルタ仙台 (震災復興チャリティーマッチ)だった。
そこから、毎試合のようにホーム戦に行くようになったのは2019年からだ。
そこからいわきFCというクラブを深く知るようになっていった。
知れば知るほど魅力的だ。

クラブが出来たきっかけは、「東日本大震災」。
クラブと関われば関わるほど、東日本大震災を思い出す。

このままでいいのか


現在ありがたいことにいわきFCのサポーターを統括するコールリーダーという役職をやらせてもらっている。
クラブだけがホームタウンである浜通りを背負い闘うのではなく、我々ファンやサポーターも浜通りを背負い戦う。

2024シーズンが終わり、試合のない週末が始まった。
そんな時、
・ホームタウンに足を運んだことあるのか。
・震災震災と口にはしているが、暮らしていたいわき市よりも大きな被害を受けた町を知っているのか。
と自問自答した。
答えは全てNOだった。

ホームタウン巡り

誰かに与えてもらうのではなく、自分の足でホームタウンに行き、自分の目でホームタウンを見て、自分の心でホームタウンを感じる。
そのために今日双葉町に車を走らせた。
富岡町に入ったあたり、町の雰囲気がガラッと変わった。
人がいない、家がない、商業施設は生きていない。
かっぱ寿司の看板が古い。
完成目前の綺麗なケーズデンキ。
私の目の色が変わった瞬間だった。


東日本大震災・原子力災害伝承館


伝承館入口


伝承館には、災害現場から見つかった衣類やランドセル、ぬいぐるみがそのまま展示されていた。
津波の映像や原子力発電所が爆発した映像、地震で揺れる事務所の映像、避難せざるおえない地域に住んでいた方々の生の声。
震災直後の写真と現在の写真。
災害により失われた家の前で呆然とする方の写真。

伝承館の中は、全て私の知らない東日本大震災だった。

震災遺構 浪江町立請戸小学校

震災遺構 浪江町立請戸小学校

SNSで画面越しに見ていた請戸小学校。
初めて自分の目で請戸小学校を見た。

避難をする子供たちの背景を映像と文字により想像しながら、津波到達の時間で止まった時計。
卒業式の準備がされた体育館。

なんとも言葉に言い表せない感情が身体全身を包み込んだ。
当時の私が学校が休みになってよかったと思ったそんな感情がものすごく馬鹿らしく、哀れな感情だと感じた。
これは、現場に足を運ばないと感じることのできない感情であると私は思う。


卒業式の準備がされた体育館

変わらないもの

帰りたくても帰れない帰還困難区域に家がある方の生の声で
「震災の前後でも海は変わらない」
という言葉があった。

伝承館の3階から見える海。空。
青かった。
一瞬で街を悲しみで包み込んだ海。
それでも変わらない青く美しい海。
美しくも切ない海だった。
そんなことを思いながら私の視界にモザイクをかけた。

伝承館から見た海と空

終わりに

私はいわきが好きだ。

私は浜通りが好きだ。

こんな気持ちにさせるきっかけをくれたいわきFC。

いわきFCが復興のシンボルになるのではなく、いわきFCをきっかけに街が元気に明るく活性化し、最終的に私たち自身が復興のシンボルになっていきたいと強く感じる。

そして、いつまでも浜を照らす光になるように。

たくさんの人たちの思いを背にこれからを必死に生きて、この街を守っていきたい。

WALK TO THE DREAM


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