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【FM店主日記Day45】ギターを練習した人しかギターを弾いて歌うことはできない

見慣れてしまうと、大抵のものは視界に入らなくなる。

モノが溢れている場所で暮らしていると、モノがそこにあることを脳は無意識に無視するようになり、そこに置かれているモノがあることすら気が付かなくなるので、そこに置かれているモノがなんであるか、というのにはもちろん気が付かなくなる。

僕は旅をしていた時期が長かったのもあって、日々の暮らしを快適に送るために絶対に必要なモノが何か、ということを割とよくわかっている。最初は必要だと思っていたモノもしばらく辞めてみるとなくても大丈夫だということに気が付き、そのうちむしろない方が快適だ、と気付くこともザラにある。

生活環境に必須なのはむしろモノよりも「清潔である」ことであり、モノが増えれば増えるほど掃除がしにくくなるので、清潔に保つことはモノの量や数に比例して難しくなる。モノやケーブル類が床に置かれていると、四角い部屋を丸く掃く、みたいなことが冗談ではなく真顔で行われるようになる。

特にマット類は家を清潔に保つために必要、という固定観念が割と強いせいかなかなか処分できないのだけど、それがあることにより洗濯機を回す回数が増えたりするので、それにより家事に費やす時間が増え、生活はさらに圧迫される、という悪循環に陥りがちだ。マット類は手間を増やす、ということは民泊ホストをやっていた頃に痛いほど実感した。

あと、水回りをきれいに保つために大切なのは、お風呂場にはモノを置かない、ということだ。シャンプーやコンディショナーのボトルやらボディーソープやら歯ブラシやら歯磨き粉やら洗面器などは使う時に風呂に持ち込み、使い終わったら拭いて風呂の外に置いておく。大学の寮の頃や、恵比寿の外人ハウス、バックパッカーのシェアバスルームで暮らしていた頃は風呂道具一式をバスケットに入れてそれを持ち運んでいたし、それを不便だと思うことも特になかった。

もう何年も前から湯シャンだけで生きているので今ではシャンプー類も使わない。歯ブラシと頭皮を洗う用のヘアブラシのみでシャワーは完結する。

モノを増やせば増やすほど人は快適になれる、というのは資本主義の罠だ。湯シャンを誰も奨励しないのは、人が湯シャンで快適さを得ることによって売れる商品がないからだ。誰も儲からない生活習慣を後押しするスポンサーなんか見つかるわけがない。

モノを減らした状態で生きていける方が快適さは圧倒的に上がるし、人間としての自力もそれに伴って上がるし、モノについて考える習慣が付くことで物事の本質を見極める力も上がるような気がする。

モノを減らすことは資本主義への抵抗であり、持続可能な人生を自ら構築する手段でもある。プラゴミをリサイクルするのが正義だと思うかも知れないが、そもそもプラスチックを使ったモノを極力使わない方が実はより大きな正義だったりする。だから死ぬほどゴミが出るウーバーイーツはタチの悪いジョークにしか思えない。ま、異論もイーロンも認めるし、自分の人生で手がいっぱいで、そんなに他者に対する優しさも意地悪さも暇も余力もないので人に強要するほどの気持ちはさらさらない。

プラゴミをたくさんリサイクルをしてる俺はエライって本気で言ってる人とは多分絶対友達にはなれないし、その人を説得するくらいならギターの練習でもしてた方が自分の人生が豊かになるのでみんな好きなように生きればよいと思うけど、モノを減らす、もゲームだと思ってやれば結構楽しめるところもあるので、人生の攻略というか、ライフハック的にやってみるのは良いと思うし、やってみないのもまた良いと思う。ギターを練習するもしないも自由なわけだし。

結局のところ、どこまで文明が進化してモノが増えて豊かになったとしても、ギターを練習した人しかギターを弾いて歌うことはできないのだ。

フェルマータ店主 KAORU

大人という呪縛、豊かさという呪縛

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