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中井久夫教授のポツダム博士のわたし

「ポツダム博士」,という言葉を聞いたことがありますか? 類似品に「ポツダム少尉(中尉,大尉,少佐,etc.)」や「ポツダム教授」があります。また,ポツダム博士にも,「ポツダム博士(第一種)」と「ポツダム博士(第二種)」があります。

日本はポツダム宣言(1945年7月26日発)を受諾して、いわゆる無条件降伏で終戦(敗戦)を迎えたのですが、戦争状態から戦後に移行するとき、すなわち同宣言の受託意思の表明(同年8月9日)から,終戦の詔書(8月14日)およびその翌日の玉音放送をはさんで,連合国の進駐開始(8月28日),そして降伏調印(9月2日)頃までの間に,さまざまな施策が行われました。

その一つが軍人を1階級昇進させるというものでした。どうせ戦争に負けてみんな除隊になるのであれば,これで退職金・恩給が増額される。これが軍事クーデターを防いだとも,インフレを招来したとも言われています。とくに,下士官を少尉に1階級特進させたものが「ポツダム少尉」として有名です。下士官と少尉以上の士官(将校)とでは天と地ほどの違いがありますから。ちなみに,わたしの祖父はポツダム大尉でした。

同様に,戦後すぐの時期に大学教員に就いた(おそらくは前任者の戦災死や公職追放によって)人が「ポツダム教授」と呼ばれ,また戦後の体制と学制がどうなるか分からないと思った大学教員たちによって繰上げで博士号を与えられた院生は「ポツダム博士(第一種)」と呼ばれました。(もちろん,“第一種”というのは岩井によるretronymです。笑)


・・・と,多くの方はここまで読んで,こんなことが中井久夫先生と何の関連があるのか!?と訝られたことと思います。大丈夫,今から話はつながります。


さて,時代はやや下って。戦後の医学部において教授が定年退職するときに、医局に在籍していた人に“在庫一掃的”に医学博士の学位を与えることも,一部では「ポツダム博士」と呼ばれるようになりました。「ポツダム博士(第二種)」です。

もうおわかりでしょう,岩井は中井教授退官時のポツダム博士なんです。


*   *   *   *


わたしは1986年(昭和61年)に神戸大学医学部医学科を卒業し,同年に神戸大学の精神科に入局した。そして,翌1987年(昭和62年)の6月から中井教授の水曜診の陪診者となった。

当時中井先生は火曜日と水曜日に外来診察をされていた。水曜診では3年上の松井律子先生がすでに陪診についておられ,そこに小生がほとんど勝手に加わったのである。後に水曜診には,金光洙先生,杉林稔先生も加わった。一方,火曜診の陪診者は女性ばかりだったので,一部の人からは“火曜ギャルズ”と呼ばれており,水曜日の陪診者はその対比から“水曜ボーイズ”と呼ばれるようになった。松井先生には申し訳ないことに。(いずれも,言い出したのは山口直彦先生であったか。) 


わたしが水曜陪診を務めるようになってちょうど1年が経過した頃,中井先生はやや唐突にこう切り出された。

「いわいくん,学位のことはどう考えているのかね?」

わたしは咄嗟に(=何も考えないで),「これまで考えたことはありません」と返した。すると先生は,なんと

「よし,立派だ。そういうことなら,わたしの仕事を手伝ってくれないか。」

と言われたのだ。(そのとき先生は確かにニヤリとされたように,わたしには思えた。)

そうして生まれたのが,

岩井圭司・徐 志偉・中井久夫:
身体像の歪みと精神-身体の対偶性:
指圧法を用いてとらえた,精神分裂病における身体像の動態平衡の障害.
 湯浅修一 編『分裂病の精神病理と治療 2』,267-315頁,星和書店,1989.

湯浅修一 編『分裂病の精神病理と治療 2』,267-315頁,星和書店,1989.

他の論文である。


医学部で若い医者が主任教授に対して,「学位(博士号)なんか要らない」なんてことを言おうものなら、ふつうそれは教授や医局に喧嘩を売っているとみなされる。そうならないのが、中井久夫教授という"現象”だった。こんな医学部教授はそれまでにはいなかったし,多分これからも出ないだろう。

中井先生は,“馬廻役”(殿様の親衛隊)が出世しやすいという,日本の医師ギルドの悪弊,いや古来よりこの国に巣食う悪慣行に,そのずっと前から立ち向かっておられたのだ。

『日本の医者』『抵抗的医師とは何か』を20代の終わりに楡林達夫名義で書き(いずれも中井久夫『日本の医者』(日本評論社,2010年)に再録)、医局講座制度を徹底的に批判した中井先生である。曰く,抵抗的医師とはつまるところ,市井の人の身なりをしたゲリラである。彼らは職業的革命家とは入口と出口を異にする。抵抗的医師は,傾向的な言辞を弄したり,人をアジったりはしない。抵抗のなかで実践をとおしてつかんだ思想を,最高の切札として振り回すこともない。そもそも医療は社会を根本的にかえる主要な側面ではない,,,etc.

こういった姿勢と意志を,中井先生は生涯見事に貫かれたと,わたしは思う。もちろん,医学部の講座担当者であったときにも変わらずに。

 

そんな先生が講座担当者(教授)として着任されたのが,はからずも神戸大学精神科という,当時まだ医局長公選制等に医学部闘争の残照を遺す医局講座であったことは,双方にとってまさに僥倖であったと言うほかはない。しかも,中井新教授を待ち構えていた公選医局長というのが,山口直彦先生(後に助教授,県立光風病院長,甲南大学教授)であったのだから。中井先生と山口先生の名コンビぶりについては,以前に精神病理学会の学会誌に山口先生の追悼文として書いた(山口直彦先生を偲ぶ.臨床精神病理, 41:61-64, 2020.)ので,ここでは繰り返さない。

 

 *   *   *   *

 

後日譚です。

中井先生がニヤリとしたあの日から9年を過ぎて,誰もが中井先生の定年退官を意識し始めたある日、その頃には既に中年になっていた嘗ての若い医師に向かって中井先生は言いました。

「僕が退官する前にきみに一つだけお願いがある。学位論文を書いてくれないかな」、と。

わたしの学位論文が臨時教授会を通過したのは,1997年3月29日。中井教授退官の日の前々日でした。

そういうわけで,わたしは正真正銘のポツダム博士です。しかも最末席,殿軍の。



[付記]
わたしは,もうほんの少しだけフォーマルな追悼文を,これまでに学術誌等に執筆しております。よろしければ,ご笑覧ください:

  • 岩井圭司:中井久夫先生を悼む.精神科治療学,37(12);1424-1426, 2022.

  • 岩井圭司:中井久夫先生を悼む.臨床精神病理,43(3);頁未定, 2022

  • 岩井圭司:巻頭言 臨床医の眼差し.中井久夫:中井久夫「精神科治療学」掲載著作集,ⅲ‐ⅳ,星和書店,2022.

  • 村澤和多里,岩井圭司,黒木俊秀:追悼・中井久夫と臨床心理学 ①特集にあたって.臨床心理学,23(2):頁未定,2023.


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