見出し画像

自民党結成––−第一章 岸信介の復活


「容疑者」巣鴨を出る

昭和二十三年、クリスマスイブ。まだ日本の庶民に「クリスマス」というものが根付く前のことだ。一人の男が東京都巣鴨拘置所を後にし、「シャバ」へと戻ってきた。彼の名は、岸信介。戦前は有能な官僚として腕をふるい、大東亜(太平洋)戦争開戦に際しては、東條英機内閣の閣僚に名を連ねていた。

しかし後に東條とは対立し、その内閣総辞職のきっかけをつくった人物でもある。だが、彼もまた、東京国際軍事裁判(東京裁判)のいわゆる「A級戦犯容疑者」として逮捕され、スガモ・プリズンに囚われていたのである。

誤解してはならないのは、彼はあくまでも「容疑者」であり、「戦犯」ではないということだ。東京裁判そのものについての疑義はしばらく置くとして、岸その人は起訴もされておらず、そのまま放免されている。つまり、この裁判を正当なものとしても無罪、あるいは裁判そのものを否定する立場であれば「戦犯」という定義それ事態が無効になるので、いずれにしろ岸は無罪となる。繰り返すが、ここでは東京裁判の正当性についてはしばらくおく。

さて、晴れて自由の身となった岸だが、本人の回想によると当初は政治の世界に戻るか、それとも別の道へ行くか、迷いがあったという。

<一つ頭の中を去来するのは、一切の政治に関係せず、田舎に引込んで、いわば坊さんの生活みたいに世捨て人の生活を送ろうという考えだった。他方、日本をこんなに混乱に追いやった責任者の一人として、やはりもう一度政治家として日本の政治を立て直し、残りの生涯をかけてもどれくらいのことができるかわからないけれど、せめてこれならと見極めがつくようなことをやるのが務めではないかということも考えたですよ>(岸信介・矢次一夫・伊藤隆『岸信介の回想』)

政界復帰へ

当時は、昭和電工をめぐる疑獄事件で芦田均内閣が崩壊(昭和二十三年十月七日)し、第二次吉田政権が発足して間もないころだった。わずか七ヶ月ほどで総辞職した芦田内閣の後を受けた吉田政権は、戦後占領期を通じて重要な役割を果たすことになる。

さて、巣鴨を出た岸は一度郷里の山口県へと戻るが、その後すぐに上京する。しばらくは友人の藤山愛一郎(のち外務大臣)の日東化学で役員をするなどして過ごしていたが、昭和二十七年四月二十九、サンフランシスコ講和条約の発行とともに公職追放が解除され、再び表舞台へと登場する。かねてより岸に近かった政治家らで結成された「新日本政治経済研究会」という団体が「日本再建連盟」と改組され、七月に岸が会長となったのである。すでにこの「再建連盟」の綱領には「憲法改正」が掲げられており、のちの岸、そして自民党結成の萌芽があったことがわかる。

岸信介は翌二十八年再び政界へと入るのだが、この時の一般のイメージはどんなものであったのだろうか。当時、まだ総理大臣になる前の岸について、政治評論家の阿部慎之助は次のように描写している。

<多くの追放者が徒らに、過去のカラを捨て切れず、ボヤボヤしているのに、彼のみは溌溂として、世の中に踊り出してきた。かつては軍閥官僚の寵児であったものが、いまでは民主主義の流行歌を、高らかに唱って、調子をはずさない彼だった>(阿部眞之助『戦後政治家論』)

首相になった時の「保守反動」のイメージとは裏腹に、この時の岸は「民主主義の流行歌」を見事に歌い上げているように見えたという。東條内閣に顔をつらね、一時は戦犯容疑者として囚われの身となった岸が「戦後民主主義」の世に再登場したのであるから、阿部の表現もまたむべなるかな、といったところだろうか。

そして岸が時代の階段をかけあがろうとするまさにそのきっかけこそ、連合軍による占領下で日本を主導したその人、吉田茂の長期政権に綻びがみえてきた時だった。

<続>


参考文献

岸信介・矢次一夫・伊藤隆『岸信介の回想』(文春学藝ライブラリー 二〇一四年)

阿部眞之助『戦後政治家論』(文春学藝ライブラリー 二〇一六年) 

林茂・辻清明『日本内閣史録 5』(第一法規 一九八一年)

ご厚意は猫様のお世話代、資料購入費、生きる糧などに充てさせていただきます。よろしくお願いします。