僅かな可能性を追う辛さ


僅かな可能性にカケる僕、ほしい本がもしかしたら滅多に行かない書店にあるかも知らない、気になるあの子が居る所に偶然会えるかもしれない、等等とても可能性の低い、もっと言えばその選択に至る考えの意味が分からない、という感覚である、でも僅かな可能性に「カケる」と言うか「すがる」に近い。

「0%ではない、可能性が1%でもあるなら…」というポジティブヒーローの言葉をよく聞くが、1%以下0.00001%かも知れない、そもそもそこに自分自身をカケる程のものなのか?

ヒーローと僕の明確な違いは「見極め」だ、カケる対象・価値・得るもの・失うもの、自分自身にとってのカケるものの重さが違う。

僅かな可能性にカケていると言う割には、そこで外れると「そりゃそうだ、僕なら外れて当然だ!」と考える、はずれる前提でかけている、そこへ自分自身をかけていない、そこから何が生まれる?

いわゆる成功者と呼ばれる人達は、僅かな可能性にかける場合には、可能性を上げる事、結果を受け入れる器等、それに見合った事をしているということだ。

僕はそれが出来ているか?

カケる価値があるのか?

カケるものとしての自分自身は仕上げているか?

受け入れる覚悟・受け止める器はあるか?

ココに向き合う事が、人生と言う名のカケの最低条件だ。

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