映画『ルックバック』観た
・いちおう感想記事ということになるが、映画の内容自体への言及より個人的な思考の方がずっと多い。
・当然ネタバレもある。
・読ませる気0で思いついたことをそのままに書いただけのものなので、本当に読みにくいと思う。なぜなら文として成り立ってないから。
・たとえるならそう、音声字幕の文字起こしみたいな。そういう感じ。
以下、感想。
わたしはあんなに正しい努力/創作をするつもりもないし、できない
それが一番の感想かもしれない
私は努力に正解があるとは全く思わないし、努力なんて美化され切った言葉を使うのもあまり好みではない
誰もが当たり前のように積み重ねている
誰も特別ではないし、特別なこともしていなくて、努力と呼ばれる行動は、ただ客観的に見て徹底した選択の連立であったり、それが多くの人にとってもの珍しく見えるだけのこと
誰しもが努力していると言えるし、努力していないとも当然言える
という前提を持って
この作品が貫くのは努力、それもなぜ創作をするのか、というものの在処だ
そうだ
読者がいるから描く、なんて
そんなことは、私にはできない
自分のための創作なのだ
自分のための創作であるべきだ、と思っている
創作は私の占有物だ、私の世界である、として
呼吸のために創り広げる部屋の一部だ
だったから、私にとって
創作、ではなく想像、創造だったけれど
それは生存戦略だったし、欠けたら死ぬものだった
たぶん京本も同じだ
藤野は違う
演出見るか
60分という尺に伸ばした(漫画と比較して。あの漫画一冊を60分かけて読む人はまあ、少ないと思う)ことに意味があって
つまり、映画にしたことに意味があった
私はそう思う
情報が補填され、漫画より思考の流れが理解できる
漫画でも話の流れは明瞭だった
映画は読み返すことができないから、一発で意図を伝え切らなければいけない。それを達成していた
メッセージが分かりやすくなっていた
だからこそ、私は反論したい
「私のための絵」にさせてしまった藤野には、やっぱり功罪があるんだ
罪というにはあまりにも、くだらなくて仕方のないものだけど
藤野は京本のことを信じていて、信じているからこそ、想像のなかでも京本が絵を描き続けるとしている
藤野なんていらなかった、のは、正しい
京本が絵が上手くなりたいから、で美大を選んだことを、藤野は否定できなかった
その気持ちを否定できる言葉が創作者にあるはずがない
そう
京本が本当に絵を描き続けたか?に関しては結構疑問があるかもしれないけど
しかし、絵が上手くなりたいから、で藤野から離れられるなら
たぶん、京本は「自分のための創作」をしていたんだ
どうして4コマを描こうと思ったのか
学校という場所と、少しでも関りを持ちたかったからか?
分かる気がする
居場所を、4コマという世界の中に作っていた
だから、彼女の4コマには展開がなく
ただ世界だけがあった
藤野は違う
自分を見てくれる他人のための創作だった
他人に見られる自分を保護し、強化するための創作
ずっと、ずっと
それが間違っているとは思っていないし、二極化する必要もないと分かっている
人間は単結晶ではないからね
くやしさという感情がさ
湧いた原因は二つあって
人に見てもらえないかも、という恐怖と
自分より上手い奴がいていいはずがないというプライド
でも、それでも書き続けて乗せ続けるんだから
子供なりに怖いもの知らずで、プライドがそれに勝っていた
すごいんだよな、これが
普通こんなことはできない
「背中を見て」という4コマタイトルがさ
藤本タツキ、そっけなさすぎる
漫画でもっと強調してもいいくらいだった
それくらい読み取れって言われてる?
藤本タツキは完全に計算で漫画描いてるんだよな
糸の引っ張り方が、そういうタイプだ
さよなら絵梨のセルフオマージュあったね、映画館のシーン
藤野ってどう見ても感性で描いてるんだよな
というか声優の演技かなり上手かったな
かなりって言うほど上手いかはわからないけど、上手かった
派手な演技が必要なシーンは無いから、目立ってないけど
上手いな
なあ
読者がいるから描くの?
本当に?
京本がいたから?
京本がいなくなっても、今心待ちにしている人がいて
京本が死んだ後に、ちゃんと完結させたよって言うために?
違うよな、流石に
漫画描くことが好きでプライドになってなきゃムリだ
だから、そう
表面化している動機の話だ
漫画だとサンダル履いてるんだ、京本が藤野と出会うシーン
はだしだったな
正直はだしでもいいと思う
サンダルにしたのはリアリティかな
流石にはだしで出ていくなんてのは、過剰な演出だ、として
藤本タツキってそういうリアリティ好きだからな
漫画に現実を差し込む方向性がそう
自分を保護し、強化するための創作は
それもまた、生存戦略じゃないのか?
いやでも
それなら、満足があるんだ
どこかに
本当に?
ただ、上手くなりたいってだけじゃないのか
上手くなりたいという気持ちは、強化のためだ
自立して、世界を歩むための
創作による、創作を身にまとうことによる部屋の創出
心は歩く個室
ただの僻みだったかもしれないな
映画を観て許さない、と思ったのは
私が得られなかったものを得ている人間への
そして、ヒロイックな感情に酔っているようにも取れる
私は別に、見てくれる人がいないわけじゃないだろ?
賞に出せば誰かが読んでくれるし、もしかしたら感想だってあるかもしれない
こうあっていいのか、ではない
こうあらねばならない
そうしなければ進めない
他のものを選べるのに、それを選んだ、というだけで
意味と覚悟があるんだ
否応なしではないんだ
藤野はそれを選んだんだ
選べる強さがあったんだ……
やっぱり私に強さがないだけな気がしてきた
受け止める強さが
理屈なんて関係ないと、ペンを握り続けるような強さが
不思議なんだよな
私が私のために作って、それを売り出そうなんて
どうかしているんだ
自分のために作った靴を、そのジャストサイズのものを世界に売り出そうって
そんな感じのことを言っている
商品としての創作とはそうではない
誰かの足にフィットするような創作
会社の要望に合致するような戦略
だから、創作は商売にしてはいけないんだ
それが本当に自分のためのものであるならば
他者を介して、自分に還元するという
読者という外部モジュールによって、創作者は本当にある種の救いを得たのか?
そんなことは無いと思う
ただ苦しいし、自他の欲求というやすりで自らを削り続ける
そういうものになった、創作は
救いではない
ただ、そこにいる権利を得るための闘争であって、指がボロボロになっても農耕をやめない、やめては飢え死にしてしまうから、そういう生き方と変わらない
創作はとても原始的なのかもしれない
こんなにも、ここに居てはいけない、を繰り返し唱えるような
そんな商売がある
私は、本当に創作を売って良いのか?
売れるものを作る自信はある
妥当な思考とある程度の積み重ねがあれば、誰だってできるから
創作は才能の世界ではないと思っていて
才能、というよりは、感性か
生まれつきのものに左右されることは少ない
何を良しとして、何を作るのかという
思考と選択の連立が個性を作り、そこに居場所を産む
それを続けて改造していく 売るためには
それでいいのか?
私のための創作は、いつか誰かのためのものにすり替わってしまうかもしれない
それでもいいのか?
だから、外部のものに救われることを許すかどうかという話になるんだ
救われる自分を認めて良いのか、ということ
感想と思考を大体回し終えて
最終的に、私は自己の外にあるものによって救われることを許すか、許さないか、という岐路に立つことになる
創作をしているうちに分かるだろう、として今は棚上げする
やっぱり本質的に一人で観るための映画だった気がする
映画館じゃなくて
暗い部屋で、一人で観る
そして、感謝だ
私は私の心のとても近くに居てくれる人を、最近得られるようになって
ただ、感謝が湧いた
感謝しつつ、その類いの救いに依存するべきかどうか吟味していくべきだ
そう思う
感想は以上
映画を観せてくれて、ありがとうございました
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?