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モンゴリアン悪役レスラーのカレーライス

世界的な成功をおさめた日本人の半生

「キラー・カーンというギミックと小沢 正志さん」

1970年代から80年代にかけて新日本プロレスやWWF(現WWE)で一時代を築いた元プロレスラーのキラー・カーンというレスラーを知っているだろうか。

キラー・カーンこと本名小沢正志さんが、12月29日に「動脈破裂」で死去したことがわかり、マット界は深い悲しみに包まれている。

日本の報道以上に、海外のネットニュースでは、

「WWE legend Killer Khan - who wrestled Hulk Hogan and Andre the Giant - dies aged 76 after 'being rushed to hospital with a ruptured artery'」という見出しで、

ハルク・ホーガン、アンドレ・ザ・ジャイアントと戦ったWWEのレジェンド、キラー・カーンが76歳で死去したことを伝えた。

©Corbis via Getty Images

大相撲からプロレス界へ


キラー・カーン(Killer Khan)は、春日野部屋所属の元大相撲力士で、元プロレスラー。新潟県西蒲原郡吉田町(現:燕市)出身。本名は小沢 正志(おざわ まさし)。大相撲時代の四股名は越錦(こしにしき)で、最高位は幕下40枚目。

1963年3月場所にて小沢将志の名で初土俵を踏み、入門当初は身長186cm、体重90㎏と力士としては軽量であったと言われています。

1967年7月場所より越錦(こしにしき)の四股名を与えられたものの、伸び悩んで三段目上位から幕下下位を行き来し、1970年5月場所を最後に廃業。大相撲廃業後は、1971年1月に日本プロレスに入門。その際に、どうしてもプロレスに転向したくて脱走を敢行したと言われています。

入門後は吉村道明の付き人を務め、同年11月20日の木戸修戦で小沢正志のリングネームでデビューを果たしています。

その巨体から、海外で通用する大型選手として期待されており、1976年8月にドイツへ遠征、その後、1978年より本格的な海外武者修行としてメキシコに出発。メキシコではテムヒン・エル・モンゴルを名乗り、モンゴル人レスラーに変身。

この事が後の日本人離れした巨体を生かした、モンゴリアン・ギミックの大型ヒールレスラー誕生のきっかけとなりました。

1979年3月からはアメリカ本土に進出し、NWA圏のフロリダ地区でキラー・カーン(Killer Khan)に改名。辮髪(べんぱつ)に髭をたくわえ、毛皮のベストとモンゴル帽子をコスチュームとしたモンゴリアン・スタイルを確立しました。


出典:Killer Khan (Trading Card) 1982 Wrestling All-Stars Series B

モンゴリアンギミック・レスラーの誕生


このモンゴル人ギミックおよびリングネームは、カール・ゴッチや、デューク・ケオムカ、エディ・グラハム、ジャック・ブリスコ、ダスティ・ローデスら5人のアイデアによるものだと本人が明かしています。旧リングネームのテムジンが出世したのがカーンであるからという理由と、モンゴルのチンギス・カンに由来して名付けられたと言われています。

今でも海外での人気は高く、レジェンドレスラーの一人として現地のプロレスファンにも知れ渡っています。1970年代末から1980年代にかけて、WWF(現:WWE)をはじめアメリカやカナダの主要テリトリーで実績を築くなど、国際的な成功を収めた数少ない日本人レスラーの一人です。


出典:Killer Khan vs Andre the Giant Japan

WWF時代・巨人の足折り事件


WWF、現在はWWE(World Wrestling Entertainment)という名で知られるアメリカ合衆国を代表するプロレス団体及び興行会社でもキラー・カーンの人気は高く、プロレス興行において、ストーリー性のある試合展開や、個性的なレスラーたちの活躍が特徴の団体でヒールのトップレスラーとしてのし上がっていきます。

日本人離れした巨体から繰り出されるモンゴリアンチョップやダブルニードロップは彼の代名詞となりました。全盛期は、195cm、140kgの巨体で世界のトップ選手らとの死闘を繰り広げています。

WWF時代のもっとも有名な逸話が、2m23㎝の世界の大巨人アンドレ・ザ・ジャイアントとの一戦で、巨人の足をへし折ったと言われる通称「足折り事件」です。

81年5月2日、ロチェスターでのアンドレとの初めてのシングル戦で、コーナー最上段からのダブルニ―ドロップを決め、アンドレの足を折り骨折に追い込む(実際にはヒビを入れて入院)させる試合が行われました。この試合で、カーンの名前は全米に轟き渡りますが、本人の後日談では、ニ―ドロップを誤って足に落としてしまった試合中の事故だったことが語られています。

足折り事件の後日談


この事件に関する後日談も語られています。アンドレは入院し、マスコミを通じてカーンに対して、「カムバックしたら、ぶっ殺してやる!」と怒りをぶちまけます。もちろん、こうしたコメントはビジネスを盛り上げていくための手段の一つでしたが、カーンの妻の母親がアンドレの発言をラジオで聞いてしまい、真に受けた彼女は、深刻な表情で忠告します。
「あなた、アンドレに殺されるかもしれないわ。もうプロレスなんて辞めた方がいい」

しかし、試合中の事故とは言え、カーンとアンドレは気心が知れた中で。新日本の若手の頃、外国人の世話役としてアンドレのサポートをしていた過去があり、ホテルでちゃんこを作ってあげたこともある。と後日カーン本人が語っています。WWFに来てからも、アンドレはカーンの活躍を喜んでいたそうです。

興行上では敵同士なので病院に見舞いに行くことはできなかったので、マネージャーのフレッド・ブラッシーが代わりに病室を訪ねると、アンドレは「ノープロブレム。俺の足が治ったら、この因縁を使って2人で金儲けしよう」と笑っていたと言います。

原則としてプロレスでは対戦相手に怪我させ、欠場に追い込むということはあってはならない事でしたが、この事件で、カーンには「アンドレの足を折った男」という新たな肩書きが付け加えられ、当然、プロモーターのビンズ・マクマホン・シニアもこれをチャンスと捉え、カーンとアンドレの抗争を売り出し始めたと言われています。


出典:日刊スポーツ
ポーズを決めて写真に納まるキラー・カーン(1986年9月撮影)

凱旋帰国から引退まで


凱旋帰国後は、1983年よりタイガー戸口と共に長州力の維新軍団に加入し、新日本プロレスの反体制勢力にまわります。1985年、長州らが設立したジャパンプロレスに参画し、全日本プロレスのリングに登場。1987年4月に全日本プロレスを去り、WWFと再契約。ミスター・フジをマネージャーにWWF世界王者ハルク・ホーガンと短期抗争を展開したのち、同年11月末、ニュージャージーで行われた試合を最後に現役を引退します。

ジャパンプロレスの分裂騒動でプロレス界での人間関係に嫌気がさしたことを引退の理由と言われており、当時、ホーガンやビンス・マクマホンからは、引退を撤回するよう慰留されたそうです。


出典:日刊スポーツ
85年1月、渕正信(下)にギロチンドロップを見舞うキラー・カーン

日本プロレス界との関係


海外での活躍が多かったカーンですが、日本のプロレス界における立ち位置はあまり語られることが多くありません。カーン本人は「日本のプロレス界が大嫌い」と2020年の記事で語っています。

とはいえ、ジャイアント馬場とは同じ新潟県出身で、団体は違うが馬場はカーンのことをよく気に掛けており、カーンも同郷の馬場を尊敬していたともいわれています。馬場との巨人タッグを結成する計画もあったほどでした。

馬場を尊敬していたため、馬場が日本プロレスを退団して全日本プロレスを旗揚げした際、カーン自身も全日本プロレスへの移籍を考えたが、当時坂口征二の付き人をしていた関係上、その事が言い出せず、さらに坂口が新日本プロレスへ移籍する事が決まった時、そのまま新日本へ移籍したと後に発言しています。


出典:日刊スポーツ
維新軍団記者会見 キラー・カーンさん(1983年10月撮影)

意外な人物との交流


引退後は、自身の居酒屋経営を行っていた小沢さんですが、意外な人物との交流もファンには知られています。

その意外な人物とは、シンガーソングライターの尾崎豊さんで、尾崎さんが当時、中井にあった「スナックカンちゃん」の常連客だったことが知られています。

尾崎さんはカレーライスが絶品でよく注文していたとのことで、このエピソードはその後のテレビ番組や尾崎豊さんの特集企画などでも語られています。カーンさんの店にも尾崎の色紙が飾られており、生前の尾崎が好んだ特製カレーライスが看板メニューとなっているそうです。

尾崎豊さんが愛したそのカレーは、家庭的でやさしい味だと言われています。

社会のルールや支配に背を向けろと歌った稀代のシンガーソングライターが愛したカレーが、決められたレールから外れて、モンゴル人ギミックで世界を股にかけて活躍した悪役プロレスラーの作ったカレーだという逸話も非常に興味深い話です。

晩年の小沢正志さん


小沢さんは87年の引退後、東京・新宿区中井の「スナック カンちゃん」を皮切りに場所を変えながらも飲食店を経営。多くの常連客に親しまれたものの、コロナ禍の2021年5月に東京・新宿区百人町の「居酒屋カンちゃん」を閉店した後は、苦難の日々を送っていたという様子が自身のYouTubeなどでも伝わっています。

小沢さんは22年3月にS状結腸がんを自身のチャンネルで公表し「俺は必ず皆さんの前に戻ってきます じゃあ戦いに行ってきます。皆さんお元気で」とファンにメッセージを残し、同年4月7日に手術を受けたそうです。

最期は、経営する「カンちゃんの人情酒場」の営業中にカウンターで意識を失い、動脈破裂より救急搬送され、76年の人生の幕を閉じました。

獲得タイトル・主な戦歴


最後に、力士時代とプロレスラー時代の小沢さんの戦歴に触れて、ご冥福をお祈りしたいと思います。

獲得タイトル

・NWA USタッグ王座(フロリダ版)
・ミッドサウス・ルイジアナ・ヘビー級王座
・ミッドサウス・ミシシッピ・ヘビー級王座
・スタンピード北米ヘビー級王座
・WCCW TV王座

主な戦歴

大相撲時代

生涯成績:146勝148敗7休(44場所)

プロレス時代

第5回MSGシリーズ準優勝(1982年)
第3回MSGタッグ・リーグ戦準優勝(1982年)

他人のいちプロレスファンの凡人が言っていいのかわからないのですが、おそらく波乱万丈な人生を戦い抜いた小沢さんに静かにテンカウントゴングを捧げたいと思います。

願わくば、天国でアンドレ・ザ・ジャイアントと再会し、「あんときはすまんかった」と大酒を飲み交わし、尾崎豊を招いてお手製カレーをふるまっていて欲しい。天国の「居酒屋カンちゃん」「カンちゃん人情酒場」で、レジェンドたちとプロレス談議や得意の美声の歌を
響かせて、バカ話に花を咲かせていて欲しいと心から願っています。

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