マガジンのカバー画像

線でマンガを読む

23
マンガ家の描く「線」に注目し、魅力を紹介する企画です。
運営しているクリエイター

#批評

『線でマンガを読む』奥田亜紀子

つい最近発売された、奥田亜紀子のマンガ短編集『心臓』がとても良かった。夢中になって一気読みしてしまって、そのあとに、ちょっと後悔した。すごく繊細な料理を、手づかみで一口で食べてしまったような気分だ。もっとじっくり味わって読むべきだった。 すばらしいのが、光の表現だ。太陽の光や、蛍光灯の光。木造家屋の、ガラスや障子を透過して畳におちるにぶい光、木々のあいだを抜けて渓流に切り込む光。モノクロのマンガの、トーンワークによって、表現される多種多様な光。すばらしい観察力。 (『心臓

線でマンガを読む『大橋裕之』

「ナマケモノ」という生き物がいる。人間によってなんとも侮辱的な名前をつけられた動物だ。確かに、ふだんは木にぶら下がって怠けているように見えないこともない。しかし、彼にだって、本気を出すときがあるのだ。繁殖期を迎えると、オスは自分の島を出て、海を泳いでメスを探しに行くのである。ギャップというやつの効果は絶大で、木の枝にぶらぶらしているナマケモノが、このときばかりはと、命がけで泳ぐ姿に心を打たれる。 大橋裕之というマンガ家がいる。彼の作品では、貧乏な若者や、スクールカーストの真

線でマンガを読む『中村明日美子 後編』

マンガを読むさい、私たちは、無意識のうちにそこに描かれているものを「絵」と「コマ」に分け、前者がマンガの"中身"で、後者はその内容を伝達するための"容器"のようなものと考えている。そういうルールが刷り込まれているからだ。しかし、そのルールをいちど忘れてみたとき、両者に何らかの違いはあるだろうか。 乾パンなどでつくった「食べられる容器」というものがある。なかに入っている料理を食べたのち、それ自身も食べてしまえるような器。マンガの絵とコマの関係も、じつはこれに近いのではないか。

線でマンガを読む『中村明日美子 前編』

フランスの映画監督、ジェルメール・デュラックは、「絵画の素材が色であり、音楽の素材が音であるなら、映画の素材は運動である」と述べた。それに倣えば、マンガの素材は<線>だ。そして面白いことに、マンガにおいては、人物や物体、風景などといった、描かれるもの(絵)と、それらを異なる時間、空間の中に配置するもの(コマ)が、ともに線で成り立っている。画面に描かれている正方形の線が、「絵」なのか、あるいは「コマ」なのかを決定するのは、書き手と読み手の暗黙の了解に基づく。 たとえば上記のよ

線でマンガを読む『大島弓子』

前回の当コラムにて、手塚治虫がコマの枠線や絵のレイアウトを用い、巧みな視線誘導で、ドラマチックで読みやすい画面を設計したことに触れた。 (『火の鳥 生命編』手塚治虫 ※読者の視線の動きを緑線で図示した) いま、私は「設計」という言葉をつかったが、理知的で教養豊かな手塚は、その明晰な頭脳でもって、まさに建築の構造設計のようにマンガを組み上げていったのだと思われる。だから、手塚マンガの技法は人に説明しやすい。「この部分が視線誘導でこっちに行って…」という理屈を、言語化すること

線でマンガを読む『再び 手塚治虫』

たとえば、現代のマンガと、絵本の違いはなんだろうか。すぐに頭に浮かぶのは、絵が「コマ」と呼ばれる枠線によって仕切られている、ということ。日本のマンガは基本的に右上から左下のコマへと読んでゆく進めてゆく規則になっていて、それに伴って時間の経過や場所の転換が起こる。つまり物語が進む。 絵本の場合は物語を進めるために、ページをめくる必要がある。それはマンガも同じことだが、マンガの場合、コマによって絵を仕切ることで、ひとつのページのなかでも物語を進行させることができる。 (※ただ

線でマンガを読む『夏目房之介×手塚治虫』

『線でマンガを読む』について、毎回ご好評を頂いており、読者の皆様に感謝を申し上げたい。ここらで、自分がこのコラムを書くきっかけとなった尊敬する先達を紹介しておこうと思う。マンガ家兼マンガ批評家、夏目房之介だ。 NHK・BS2で1996年から2009年まで放送されていた『BSマンガ夜話』という番組がある。毎回ひとつのマンガ作品を取り上げ、さまざまな角度から語り合うという内容。レギュラーコメンテーターはマンガ家のいしかわじゅんと夏目房之介、評論家・岡田斗司夫の三人。司会進行は交

線でマンガを読む・新学期直前スペシャル『唐沢なをき』

唐沢なをきのデビューは1980年代半ば。失礼ながら大ヒット作というのはないけれども、知る人ぞ知るギャグマンガ家として、今日に至るまで非常に長期間活躍している。短命に終わったり、途中からストーリーマンガにシフトすることの多いギャグマンガ家のなかで、この息の長さはおどろくべきものだ。タフさでいえば、中日ドラゴンズの岩瀬投手にだって匹敵するだろう。 唐沢の近作『まんが家総進撃』には、一般社会の常識から逸脱した、架空のマンガ家たちの数々の奇行が描かれている。笑いと悲しみが交互に襲っ

線でマンガを読む『西村ツチカ×岩明均』

変幻自在。西村ツチカにはこの言葉がふさわしい。物語によって、大胆にタッチを変える作家である。Gペン、ないし丸ペンを多用するが、同じペンでもまったく異なる雰囲気を演出する、高い表現力の持ち主だ。以下の4つの絵は、どれも西村の最新短編集『アイスバーン』に収められている作品から引用したものだ。ひとりの作家がこれだけ自由に絵柄を変えられる、ということに驚いてしまう。 (『アイスバーン』西村ツチカ 2017) アメコミのようなタッチから、少女マンガ的な繊細さまで、器用に操る西村だが

線でマンガを読む『タカノ綾×西島大介』

映画、小説などの作品には、その作品ごとの時間感覚、スピード感がある。例えば映画ではカットを短くつなげて素早い動作を演出したり、反対に、延々と同じカットを長まわしして、ゆったりとした時の流れを観客に感じさせたりという工夫によって、作品の「色」が決まる。マンガにおいて、映画のカット割りと相同の役割を果たすのは、コマ割りであるが、「線」そのものも時間感覚を決定する重要なファクターとなりうる。今回は、時間感覚において対照的な印象をもたらすふたりの作家、タカノ綾と西島大介の線を紹介した

線でマンガを読む『五十嵐大介』

作家の引く描線は彼の物語、宇宙観を何よりも雄弁に語るだろう。その典型例が、五十嵐大介である。 五十嵐は主線に強弱が比較的つきにくく、細い線を引くことができる丸ペンを用い、細部をボールペンで緻密に書き込んでゆく。微細な線の集積によって描かれた、人物を圧倒するほどの存在感を有する動植物たち。一般にマンガに描かれる動物や植物は、デフォルメされたり、あくまで「背景」として簡略化されることが多いが、五十嵐の場合はちがう。五十嵐は「自然」を描くことに尋常ではないこだわりを持った作家だ。