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【 大峯修行体験記② 】:役小角と修験道の謎 〜神代から飛鳥奈良時代・役小角誕生まで〜

引き続き「役行者 修験道 海人と黄金伝説(前田良一著)」を読んでわかったこと、色々調べて感じたことのまとめ。

◽️2. 金峯山はなんで黄金の峰の山なの?

役小角が賀茂一族の末裔であることは体験記①の通り。この賀茂氏は奈良の葛城山(役小角の出身地)の麓にある高嶋神社の神官であった。
高嶋神社は全国の賀茂・鴨神社の発祥の神社で、祭神は味耜高彦根神(アジスキタカヒコネ)。鋤(スキ)の名が示す通り鉄製農具の神、金属神である。
味耜高彦根神は大国主命を父とし、母を多紀理毘売命(タキリヒメ)という。多紀理毘売命は宗像海人が奉じた航海神である。役小角=賀茂一族のルーツは古代奴国の九州海人族であるから、先祖代々の神々を葛城山に祀ったということになる。
奴国が滅びた時に全国に散っていった海人族の末裔達が賀茂・鴨の名とともにその信仰を広めていったと考えられる。

海人族が航海神を祀るのは当然だが、なぜ金属神なのか。
当時の航海船の船底には辰砂(硫化水銀)が防腐剤として塗布された。寺社仏閣に塗られる朱もこの辰砂が原材料である。
魏志倭人伝によれば当時の正統王朝である倭国の主な輸出品は金、銀、水銀、硫黄、錫、銅、鉄と金属が列挙されている。意外なことに古代日本は鉱物資源大国だったのだ。

中国との朝貢貿易のための金属類を船で運んだのが奴国の海人族であった。この時、中国は道教が隆盛を誇っており、水銀は不老長寿をもたらす仙薬として特別に高値で取引された。
海上輸送をしながら海人族達はこう考えた。
「自分達で採掘した方が早いし儲かる」
もともと船底防腐剤として辰砂は採掘していた。辰砂を加熱すれば水銀となることもすぐに気がついただろう。

ここで登場するのが国津神「井光」である。
朝貢貿易で金属の価値に目をつけた海人族は、その優れた航海術で全国の鉱脈を探して回った。そして辿り着いたのが吉野(というかほぼ紀伊半島全域で、特に吉野)の地であった。
日本書紀によれば神武東征の際、ヤタガラスに導かれて訪れた吉野の地で、全身を光らせて尻尾のある者が井戸から出てきた。神武天皇がお前は何者だと聞いたところ、「臣は是国神なり。名を井光と為ふ」と答えたという。

神武天皇は最初に熊野の地に辿りいてヤタガラスと出会っている。つまり、熊野の土蜘蛛・ヤタガラスが吉野の土蜘蛛・井光を紹介した、という構図だ。
全身が光っていたのはおそらく辰砂に含まれる自然水銀で、井戸とは鉱山口、尻尾というのは今も山伏が身につけている引敷という鹿皮の腰巻きのようなもので、冷たい岩場に座っても尻が冷えないようにするためのものだったと考えられる。

吉野にはこの井光の存在の証拠痕跡が井光山、井光神社、井光井戸して今もなお現存している。
この「井光」こそ、古代海洋国家奴国の凄腕鉱山技術者にして山伏のルーツだと考えられる。
海人族の金属神信仰がここにつながってくる。
そして井光は知っていた。
辰砂(水銀)のあることろには高確率で黄金が眠っているということを。

井光によって発見された莫大な鉱脈によって、吉野水銀黄金勢力ともいうべき強力な組織が誕生する。
交易価値の極めて高い水銀と、どんなに時間がたっても劣化も酸化もせず永遠の輝きを放つ黄金が発見されたことで、吉野一帯には超厳戒な結界が張られ、高度な航海術と戦力を有する海人族達によって武装守護された。

この神武東征神話からおよそ600年後の7世紀前半、仏教伝来からおよそ100年、律令国家体制を整えようとしている飛鳥奈良時代の日本において、豊富な鉱山資源を元に吉野山に空前の繁栄が訪れる。

金峯神社が祀られ、あたり一帯の山も「金の峯」すなわち金峯山として名を轟かせた。
はじめは金峯山といえば吉野山を指していたようだが、水銀と黄金を求めて掘り進めていくうちに吉野山〜山上ヶ岳一帯を金峯山と呼ぶようになった。
そして時の権力者達がその豊富な金属資源=資金と強大な武力を頼り、こぞって吉野の地を訪れることになる。

このような時代に、ついに役小角が誕生する…

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