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動詞が大きい

こんにちは、のあです。
気になってた「ミライの源氏物語」をやっと読めたので、色々思ったことを書いてみようと思います。

以下、本のネタバレを含みます。

本作品は山崎ナオコ―ラさんが源氏物語について、ルッキズム・フェミニズムなどの現代的視点から考えてみた作品でした。個人的に古典文学にも、ジェンダー論みたいなものにも興味があったのでずっと読もうと思ってたんですが、めんどくさがってるうちに時間が経ってしまっていました。

率直な感想を言うと、「色気が消えた」って感じです。誓って批判したいわけではなくて、むしろ山崎さんの視点も発想もめちゃめちゃ面白かったので友人にもお勧めしたいんです。ただ、持論として文学は言語化できない部分が一番の核になっていると思っているんですよ。作者が言葉にしてない余白部分を読み手が想像することで、読み手ごとに物語を完成させていく過程が読書だと思っていて。よく漫画とかである、ファンの方の考察文とか二次創作とかってその典型例だと思っていて、読者が原作の曖昧さを愛しているのが伝わると勝手に嬉しくなります。
ただ今回の作品は一読者の妄想を超えた、現代の社会的規範に当てはめた分析みたいなもので、山崎さんが意図的に原作のエモさを取り払って、全員の共通認識の正しい型にギュッと押し込めてみているんです。なので、原作の趣きみたいなものが好きな方は、まず原作の余韻と本作品を切り離してから読むことをお勧めします。

「ミライの源氏物語」を読んで意外だと思ったのが山崎さんの現代的価値観に対する態度でした。なんとなく私の先入観として「昔の考え方は配慮が足りていない」「今の方が優れている」みたいな論調で話が展開するものだと思っていたんですけど、山崎さんはむしろ昔の価値観がただそれ単独のものとして生まれたわけではなくて、様々な社会的環境の中で生まれたものだ、とわりと公正な目線で捉えていました。その上で「浮舟って二股っていうより性暴力では?」とか「マザコンって人間の他者認識の仕方として面白いよね」とか持論を展開されているのがとても面白かったです。
イメージ的には①ニュアンスを含んだ原作が②いったん現代の規範の型に押し込められて③山崎さんの視点に修正されて、またニュアンスが認められるという過程という感じでした。

全部を通して思ったことは、今のモラルとか規範みたいなものが最終地点ではないのだなということでした。ちょっと前に「主語が大きい」という言い回しが流行ったけど、それと同じ現象で現代の状況は「動詞が大きい」なと思うんですよね。近代にかけて今まで暗黙の了解にせざるを得なかった嫌なことに「ハラスメント」、「性差別」、「エイジズム」、「ルッキズム」などと名前を付けて、傷つく人がいるからやめようという風潮になっています。でもそれって被害を受けていない人には感覚神経が通っていない部分なので、意味が分からない人も多いんだと思います。だからこそ「雰囲気」じゃなくて「具体的な行動」でNGを出していくしか方法がないのでしょう。例えば「彼氏の有無を聞いたらセクハラ」とか「人の生まれ持った美醜に言及してはいけない」とか。
でもそれって本来超ケースバイケースじゃないですか?相手の性格・態度・相手との関係性・その場の雰囲気とかいろんなことを総合して考えるべきだと思うんですよ。「ミライの源氏物語」のルッキズムの章で山崎さんが、「末摘花の赤い花を笑うことへの嫌悪感」と、「光源氏と紫の上が二人っきりで赤い鼻の人物の絵を描いてくすくす笑う場面への少女漫画的ときめき」の矛盾に言及されていて、まじでそれな?と思ってしまいました。「顔の醜さを笑う」という行為自体にジャッジをしろと言われれば悪だとは思うけど、全部が全部嫌悪するべきものなのかと聞かれればすごく難しいんですよね。今の価値観ももっともっとアップデートされて、いつか一人一人にカスタマイズされていくのかもしれないと思うけど、察する力は個人によって異なるからこれ以上は無理なのかなとも思ってしまったりで、難しい問題だなと思いました。


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