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愛着障害についての本を読んだ。

一般的には人間関係に重点が置かれがちだが、他人との関わり方は人それぞれで、それを大事にしてもしなくてもそれは自由だ。どの生き方も尊重されるべきで、責められる筋合いはないはず。「やな人だよね」も別の視点からみたらあなたもやな人かもと思ってしまう。それほどの関心もなければ憤りも感じられない消極的な関わり方は改めなければいけないなと思う。

私たち・私を煩わせるのは世に溢れるキャッチコピーや、他人の自己表現や自分自身の迷いだと思う。そして、キャッチコピーは私のために書かれているわけではない。雑誌の読み放題で比較してみても、趣味や年齢層の区分によってそのジャンルを網羅しつつ製品をプロモーションできるようなデザインがされているように感じました。どれも素敵ではあるけど、当然のことながら個人の趣味嗜好を反映しているわけではないし、モデルさん自身のリアルが描かれるわけでもない(インタビューとかは別かもしれないけど、写真はあくまで仕事としての作品だと思う)。雑誌で書かれているたとえば「おんなのこ」は「そのジャンルが好きな人」を各雑誌の世界観に合わせて類型化したもの。

あくまで情報を集めるための媒体であり、それをできるだけ素敵に見えるようにプロがデザインし、提案したものにすぎない。だからこそ、読者であり読者でしかない私は私として自分で自分に合うものを作らなくてはならない。夥しい選択肢の中から大事にできるものを選び抜くための審美眼を養うことは生きる上で大事なことだと思う。

他人の自己表現について。SNSで気軽に個人が発信できる時代、いろんな立場の人のいろんな意見を見ることができるのは貴重なことではあると思う。でも、SNSで流れてくる情報の裏にはその投稿をつくった個人が意識されにくい構造ができている。インスタのROM専垢で見るエッセイ的な投稿で特にそう感じるのだが、本来なら一個人の体験談としてとても重みのあるもののはずのエピソードが一つのハッシュタグに束ねられていることに要因がある気がする。簡単に閲覧できたしまう情報は受け手としてはなんとなく軽い気持ちで見てしまう。だから自分と投稿主との違いなんかに本来ないはずの焦りを感じてしまうのかもしれない。自分がつくりだしたもの以外には自分は干渉できない。何かに良くも悪くも気持ちを動かされると、そのもの自体に親しみや敵意を持ってしまうことがある。そういう心の動きを通して好きになったり嫌いになったりと関係性ができていくのだが、これは非常に受動的な関係性のように思う。これが悪いわけではないし、私自身がとても受け身な人間なので責められたらどうしようもなくなってしまうが、主体的に行動する素晴らしさは何者にも変えられないはずである。自分で作り上げることは想像以上に大変なのだ。おにぎり一つとてもコンビニで買って食べるのと、自分でお米を炊いて具を調理して熱いのに耐えて握るにとではまったくプロセスが違う。

人と話すだけでも、スマホを見るだけでもいろんな情報が入ってくる。その中で自我を保つことは本当に大変だ。自分のやっていることに自信なんて持てるわけもないし、自信なんてあったらそれこそ疑った方がいいのではないかとすら思ってしまう。いろんなことに触れつつ、自分を満足させられるものを見抜けるようになるのが幸福のひみつか。

シンデレラはジャスミンやベルのように幸せになるために直接道を切り開くタイプのプリンセスではなかったから、昔に観た記憶ではもっぱらビジュアルで好きなプリンセスだった。改めて映画を見てみると、シンデレラはチャンスをものにできるポテンシャルを持った女の子だったのだ。王子様にみそめられ結婚するというのはものすごくシンプルなおとぎ話の形式に思えるかもしれないけれど、ある種の例え話と思って観てみると、強く生き抜き幸せを掴み取る話である。

シンデレラが美人なのはおとぎ話の表現として心の美しさの体現でもあると私は思っている。対比としてシンデレラ以外の登場人物はコミカルに描かれがちだ。実際美人が理由で王子様も一目惚れしたのかもしれないが、どんなに虐げられても希望を持ち続け、人(動物たち)に優しくできる強さは物語の主人公としたら地味なところかもしれないが、実際の人として考えたらとてもすごいことである。普段はおしゃれする暇もないのにドレスの似合う立ち居振る舞いができるあの優雅さは一朝一夕で身に付くものではない。「プリンスチャーミング」という王子様の呼称にも注目。これはただの「素敵な王子様」という抽象的な呼び方で、キャラクターとしての個性を持たない。愛する人と暮らすというシンデレラにとっての幸せの象徴なのだ。辛い中でも強かに優雅だったシンデレラがお城で巡り合った恋を仲間の助けと持ち前のエレガンスで掴み取る話。信じれば夢は叶う、というのは綺麗事らしく聞こえるけれど、いつかのチャンスを無駄にしないために準備なさい、ということをロマンチックに言ったものかもしれない。

幸せについて。お金があったら楽しいことし放題だし、仕事に煩わされることもないだろうし。美人だったら鏡みるだけで嬉しくなるかもしれない。愛する人が同じように自分を愛したら多分幸せでしょう。夢を叶えたらそれも素晴らしいでしょう。そういう即物的になりがちな目標は満たされたとしても際限なく求めてしまうから期待しないほうがいいかもしれない。幸せはその時々に感じるもので、一言で表さない方が賢明に思える。修学旅行のあの夜とか、友人との帰り道とか、誕生日プレゼントとかケーキとか、作品を作れたこととか。どちらかというとシーンやビジュアルで思い出される。「幸せになる」というより「幸せである」という言い方の方が当てはまっているかも。どうしても辛い時はこんなことは考えられないかもしれないけど。ほどほどに現実を満たして、気持ちの上では身の丈にあったものに心を動かせる柔軟さを学びたい。

一番やらない方がいいことは、他人の幸せをやっかみ見下すこと。「あなたは〇〇だからいいよね」みたいな言い方は良くない。そして、こういう振る舞いは相手が傷つくからという以上に自分をこんなくだらない人間にしないという点で大事である。自分が「幸せ」になった時に堂々とできなくなってしまうツケもある。

自己肯定感という言葉はよく使われるが、これも気軽に言えることではないよなと思う。生きていたらたくさん悩み事は生まれるものだと思うが、傷口に適当に絆創膏を貼るような肯定の仕方には違和感を覚える。それで本人が気楽になれるならいいけれど、私がやるにはなんか違う気がした。これもSNSの情報の軽さに通づることではあるが、自分について大事なことだからこそ人の価値観から遠くに置いておきたい。自信を持つのはいいことだが傲慢になりうる。

「ぼくら対せかい」というのは本当にそうで、なんとなく自分以外の存在に信用を置いていない感覚がある。嫌いなわけでも敵と思っているわけでもない。大好きなものはあるし自分以外の存在にすがって生きていて感謝の気持ちもある。これについて考えてみたら、責任感の有無かもしれないと思い至った。回避型の愛着スタイルの傾向にもあったが、他人との継続的な関係に責任を持つのに煩わしく思ってしまうところがある。これが愛着・人間関係に繋がるならば、自分が干渉できると感じることが愛と言えるのではないか。これは一方的なものだとしても関係性の最初としては成り立つはず。

「自分を守って 軟弱なその盾が戦うのに十分な強さに変わる日まで 謙虚も慎ましさも 無闇に過剰なら卑屈だ いつか屈辱を晴らすなら 今日、侮辱された弱さで」

amazarashi『フィロソフィー』より。中学2年生のとき、毎朝学校に行く前に聴いていた思い出がある。高校大学と絵を描きながら自分のことについて悩み、ひとり遊びの子から徐々に友達と過ごすことを覚えてきたけれど、もう少し心が決まればやっと人生が始まるような気がする。とてもモラトリアム。

「うまくいかない人生のためにしつらえた陽光は 消えてしまいたい己が影の輪郭を明瞭に」

先ほどの自己肯定感の話がここに集約されていてびっくりしちゃった。目標を持つことは大事だし活力になるけれど、本心に反するようなやりたくないことは極力しないでいきたい。騙し騙しでやることは努力に見えるし実際努力だけど、幸せであるための行動としては怠慢とも言える。

最近考えていたことを文章にできてよかった。まとまりはないが、書くことで頭の中が少しすっきりした。

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