日本語のあれこれ
うちの犬はよく吠える。私が小学校6年生の時に家にやってきた今年で8歳になるトイプードルだ。そんなありきたりな前置きはさておき、本題に入りたい。これは今日うちの犬が吠えていた時にふと考えついた疑問である。
「弱い犬ほどよく吠える」
日本語にはこういうことわざがある。
弱い奴ほど口数が多い。という意味の言葉で、言われた相手は往々にして言い訳をたくさん並べていたりぐだぐだと屁理屈を吐いていることが多いわけだが、この言葉。
そもそも「犬」と形容されていることにバカにされているという要素が含まれているのではないかと推測することはできないだろうか?
弱い犬がよく吠えるように、弱い人間の口数が多いという対比にも捉えられるが、弱い犬そのものに例えているのだとしたらこのことわざの破壊力は微量ながら上がるだろう。
しかし。
相手を弱い犬として表した場合、弱い犬の側にも切り返しがある。
自分が弱い犬として例えられているのならば弱い犬の対になる立場には何が来るだろうか。
そう。
強い犬である。
この場合弱い犬と形容された側は、自分は弱い犬がよく吠えるようによく喋る人間だというふうに形容されたのではなく、弱い犬そのものに形容されたのだと捉えることによって、相手方も強い弱いはあれど所詮犬同士の喧嘩なのだと納得することができる。それどころか、相手はこちらを弱い犬だと錯覚しているがこちらはれっきとした人間であり、強い弱いにかかわらず犬であるのは貴様の方だと、逆にマウントを取ることもできるだろう。
この記事を読んだ人はこれから暮らしていく中で「弱い犬ほどよく吠える」という言葉を聞いた時に永遠とこの疑問に囚われ、挙げ句の果てに誰かにこの論を説明しようとさえする人も現れるだろう。しかし気をつけて欲しいのは、その論を早口で捲し立て「どうだ、俺頭ええやろw」みたいなその態度をとった瞬間こそが弱い犬ほどよく吠えるの現場なのである。
つまり。
弱い犬ほどよく吠えるという言葉は我々人類には扱い切れないほどの未知の危険性と巨大な質量エネルギーを秘めているのである。今の科学技術及びテクノロジーの進歩レベルではこの謎の核心に及ぶにはあまりに大きなリスクが伴ってくることを察しのいい読者の皆さんならば理解していただけると思う。
結局のところ、弱い犬ほどよく吠えるなどという比喩は新たな口論、もしくは終わりのない哲学的思想の切り口になりうる可能性を秘めているという点において、われわれには到底扱いきれる代物ではない。故に、弱い犬ほどよく吠えるという言葉は犬界においてのみ使用が許されるべきであり、筆者の指す犬界とは、即ち読んで字の如く
犬の世界である。犬が犬であるために犬の犬による犬のためのイッヌとして犬田犬太郎。犬。
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