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音楽って言葉で説明しきれるもの? -- 蜂蜜と遠雷 恩田 陸

先に書いておきます。今回のテキストは、音楽の才能に恵まれなかった男のやっかみです、僻みです、オレ性格悪いです。蜂蜜と遠雷をはじめとする恩田陸さんの作品が大好きな方は、読まないほうがいいと思います。ネタバレもしてますし…。

僕はお付き合いでコンサートのMCの仕事をさせていただくことがあります。もうさすがにこの歳になれば、見栄えも悪いし若くて上手な方が他にたくさんいらっしゃるので、おそらくもう声がかかることは無いでしょう。なので、そろそろ本音を書いても良い頃合いかなと思います。

実は僕はコンサートのMCの仕事があまり好きではありません。その大きな理由が演奏者との間にあるどうしようもない気持ちの隔たりです。同じ舞台に立つ者として協力しようとしてもいつも要所要所で彼等と自分は別の人種だと思わされてしまう。そんな経験を何度もしてきました。

最も隔たりを感じるのは曲紹介です。大抵の場合演奏者が曲紹介の文面を書いて下さるのですが、これがどうにも説明的でいつも困ってしまうのです。いや、どんな原稿でも面白く聴かせるのが司会者のつとめだろと言われれば返す言葉はありませんが、正直原稿を読むたびに司会も曲紹介も無いほうがよほど良いと感じるのです。本当にお客様に聴いてほしいと思う気持ちが今ひとつ伝わってこない。

この作品を読んでいると、そんな曲紹介のモヤモヤがそのまま蘇ってきます。

恩田陸さんの「蜂蜜と遠雷」は日本で行われる国際ピアノコンクールに出場する3人の若き"天才"ピアニストと、1人の"そこまでじゃない才能"のピアニスト、そしてコンクールを取り巻く表や裏の人々を描いた物語です。まあ物語の中での出来事は、コンクールが始まって、審査による悲喜こもごもがあって、コンクールが終わる、というだけであって、上下2刊にわたる文章の大半を占めるのは演奏の描写と奏者の独白です。

天才少年少女たちのの素晴らしい演奏やその演奏に感動する人々の描写がこれでもかと続くわけですが、なんて言うんですかねえ、言葉を重ねれば重ねるほど音楽の持つ自由さが失われていき、反対にこちらの想像力が決まった型に押し込められていくような息苦しさを感じるんです。実際ネットなどのコメントを見てもこの演奏シーンの書き方を受容できるかどうかで、この作品の評価が二分されてるようですが、僕はダメでした。

そもそも作者が何を思ってこの題材を選んだのかはわかりませんが、題名を聴いて直ぐにメロディが思い浮かぶようなクラシックに明るい人でないとこの作品は楽しめないと思います。いや、クラシック通だったとしても、作中に登場する架空の課題曲「春と修羅」や個々が自由に演奏するカデンツァの部分に至ってはどんな音楽なのか、センスのない僕なんかにはおよそ理解の手がかりになるものがありませんが、これを読んで音楽が聴こえてくる人なんて居るんでしょうか。そんな雲か霞かわからない物を様々な形容詞を積み重ねて説明していく文章は、まるで川島なおみのワインのウンチクを聴かされてるような思いでした(例えがちょっと古いか)。

仮にも直木賞と本屋大賞のW受賞なのだから傑作なのは間違い無いはずなのですが、どうやら残念ながら僕にはこの作品の素晴らしさを受け取る才能が欠如しているらしいです。でも僕は確かめてみたい。もし音楽の才能に恵まれていたならば、本当にこの作品に描かれているようなことが起こり得るのか、ピアノの演奏を聴いて目の前にありありと情景や物語を見出すことができるのか、奏者と会話するような気分になれるのだろうか。そんなララァとアムロの邂逅みたいな体験を、芸術家の皆さんは日々しているというのでしょうか。

いや、これを書いている自分はしょうもないなと、それはわかっています。僕だってきちんと調律されたピアノで聴く和音を聴いただけで涙ぐむような気分になったことぐらいはあります。音楽はその存在自体が感動に値する物だと僕も思います。ただ、その素晴らしさを言葉を尽くして語ろうとする行為って必要なんだろうかと思ってしまう。

国際ピアノコンクールを題材に小説を書くというのは素晴らしい試みだと思いますが、どうせ書くならもっと別に書くべきことがあったように思います。少なくとも本文で最も魅力的な表現で美化された型破りな風間塵の演奏がなぜコンクール1位ではなかったのか、偉大な音楽家が仕掛けた爆弾が彼の存在だったはずですが、その爆弾は古参の音楽家や審査員たちにどんな影響を与えたのか、物語の序盤に投げかけられた大きなテーマについては何も語られないまま、天才少年少女がそれぞれ歓喜のパフォーマンスを演じて物語は終わります。作家が文字に表して表現しなければいけない所が全然書かれてないと感じました。雰囲気は上等ですが、僕は評価できないです。この作品に対する僕の感想を一言で表すなら「表現力に自信のある作家がひたすら音楽表現に闘いを挑んだだけの作品」というところでしょうか。この作品の一体何が評価されたのかわかりません。直木賞の審査員も、本屋大賞の審査員も、音楽を理解できないと思われたくなかっただけなんじゃないかと疑いたくなるほどです。

僕がお手伝いをしていたコンサートで演奏された楽曲は歌のない、歌詞のない作品がほとんどだったので、曲紹介の原稿は大抵作曲者のプロフィールと楽曲が作成された背景、そしてその音楽が何を表現しているかのこと細かな説明でした。プロフィールや背景ならともかく、曲について「ここではこの楽器がこんな感じを表現して、そのあとはこれこれの演奏でこんな感じで盛り上げます」とか。まあ僕のような素人や初めて演奏会に訪れる人には親切なのかもしれませんが、僕自身は「なにもそこまでご丁寧に説明しなくてもいいんじゃないの?」と思うことが度々ありました。

そしてこの「蜂蜜と遠雷」でもまったく同じことを感じます。僕はこの本を読んでもピアノの演奏を聴きたいという欲求はほとんど湧いてきませんでした。あれほど音楽の素晴らしさを筆舌尽くして語っているにも関わらず、です。この本を評価してる人はたくさんいる。多分その人たちには何かが聞こえていて、僕にはそれが聞こえてこない。聞こえている人たちがいること自体信じられない。残念ながら「蜂蜜と遠雷」はそれくらい僕と距離のある作品でした。

ですが!曲を聴けるとなれば話は別です。つまり映画です。せっかく映画ができたのであれば、見せてもらおうじゃないですか。

というわけで、映画版の感想に続くのであります。

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