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マッチの火を灯す時

さっき蝋燭を作った時
何かを作ってみる事がはじめてかもしれない自分に気付いた
人の世を動かす根幹のひとつを 俺は知らなかったんだ
(椎名橙『それでも世界は美しい』より引用)

 祖父母の家に訪れたとき、お仏壇の前にある蝋燭に火を灯すために私はマッチで火をつけた。いつもはチャッカマンで火を灯していたけれど、その日はその近くにチャッカマンやライターがなかったから、マッチを使った。自分でつけたその火を見て、私は上の言葉を思い出したのだった。

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 私はずっと、マッチで火をつけるのが苦手だった。中学の理科の授業でアルコールランプに火をつけるとき、マッチでつけなければならなくて、私は怖がりながら火をつけた記憶がある。けれど、今は「怖い」という記憶があるものの、実際に怖がることはない。その変化に、私はふと考えてしまった。

 火というものが、人々を便利にする反面、やけどをしたり、時には大きな火災を招いたりすることを私は知っている。マッチで火をつけるとき、いつもやけどしないか心配だった。マッチで火をつけるのが、子どもの私にとっては怖かったのだ。自分を助けるものでありながら、自分を傷つけるものでもあること。その二面性こそが、恐ろしかった。

 東日本大震災のとき、停電によって真っ暗になった家を照らしたのは、家にあった蝋燭だった。もちろん、ライトも使ったけれど、親が結婚したときからあるというその長い長い蝋燭は、電池切れの心配がないという長所があった。その長さで、どのくらい使えるのかがわかるものだった。この蝋燭がなければ、夜に動くこともできないし、私は食べることもできない。そこまではいかなくとも、蝋燭が消えることが何となく頼りがなくなるような感じがして怖かった。子どもながらにして、そんなことを考えていたように思う。

 世の中にあふれる、たくさんの火。お仏壇の前の蠟燭の火、キャンプファイヤーの火、暖炉の火…。私はマッチで火をおこすとき、世界の中の、一つを変えてしまったようにいつも思う。チャッカマンより、ライターより、摩擦によって起こる火の勢いが強いように感じるからだ。マッチで火をつけるたび、「人の世を動かす根幹の一つ」に触れた気がしていた。

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 私はもう、マッチで火をつけるとき、怖がったりはしない。それは世界中のものは矛盾でできていることをもう知っているからだ。優しい人は同時に寂しいし、美しいものは醜さを持っているし、わかっていることはわかっていない。だから、火が自分を傷つける可能性があるものだとしても、私はマッチで火をつけるだろう。やけどをするかもしれなくても、私にはお仏壇の前の蝋燭に火を灯すという大切な役目があるのだ。傷つくかもしれない。けれど、大切な人にあいさつができる方を、私は選びたい。

 マッチの火をつける。そのとき私は、刻一刻と姿を変えるこの世界が、確かにずっと続いてきたことを思い出す。

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