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ボーカロイドの面白さ

可不の声で作られた楽曲を聞いていて、また新しい声だなぁと思った。私は小学校のときによくニコニコ動画でボーカロイド曲を聞いていて、たぶんその辺りがボーカロイドが世間にも少しずつ認知され始めた頃だった。

 今、昔のボーカロイド曲を聞いてみると、やっぱり好きな曲だ! と発見し直すし、新しいボーカロイドの楽曲を聞いていると、なんだかオシャレだなと感じる。歌ってみた、踊ってみたを見ることも多く、カラオケではついボカロ曲を入れてしまう。

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初音ミクを始めとした、KAITO、MEIKO、鏡音リンレンといった面々は、可不に比べるとやっぱり歌ってきた楽曲の多さが違う。もうすでに、ボーカロイドはそれぞれ独立した歌手であり、歴史を持った存在なのだ。新しいボカロが発売されると、それを切に感じる。

ボーカロイドが歌う楽曲も、だんだん変わってきている。最初期では、「みっくみっくにしてあげる」、「ぽっぴっぽー」といった初音ミクそれ自体を珍しいものとして個性を主張した楽曲が多くあった。しかし現在では、「砂の惑星」、「愛言葉Ⅲ」といった、初音ミクが歌うことで成立する楽曲、言い換えると、初音ミクの歴史を前提とした楽曲が多く存在する。同じ楽曲でも、可不が歌うのと、初音ミクで歌うのとでは、声質が異なるだけでなく、その楽曲が伝えるメッセージでさえ変わってしまう。

可不が出て、私が特に聞いた曲はGigaさんの「CH4NGE」、syudouさんの「キュートなカノジョ」だ。

「CH4NGE」はアップテンポな曲で、繊細な声という特徴を生かした楽曲が多かった可不の楽曲で存在感を感じる。「そのエースかっさらうのは私だ」という歌詞は、新たに出た可不だからこそその言葉の意味を存分に活かせる。
「キュートなカノジョ」は恋人を完全に把握しなきゃ気が済まないような"カノジョ"の歌だ。「背中につけられた誰かのキスの跡 一人で買うわけのないそれも 見て見ぬふりなだけ」という歌詞からは"カノジョ"の想う人がこちらをきちんと見ていない、浮気な人を連想させる。それか浮気ではなく"カノジョ"の思い込みか。サビ前の特徴的なSEは耳に残り、鮮明な印象を与える。初音ミクが歌えば少し暗い印象を与えてしまいそうなところを、可不が歌うことでキャッチーな音楽性を持たせることに成功している(その対になる「カレシのジュード」は初音ミクが歌唱している)。可不の新人という枠組みは曲の意味も揺るがす。

 人間の誰かが歌ってしまえば、その人となりを反映させてしまいそうな楽曲でも、ボーカロイドを用いることで一般の誰かとしての価値が出てくる。名のある歌手、歌い手さんが歌う楽曲ももちろん素敵だと思う。でも、ボーカロイドは人間らしさがその存在自体にないからこそ、一人ひとりの個に寄り添える。一般化された歌になる。

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 ボーカロイド楽曲が増えることでもたらされるのは、ボーカロイドという音楽ジャンルの確立だと思う。人間の歌手であれば歌わなくともその人の歴史があるけれど、ボーカロイドは歌うことでそのキャラクターの個性を作り上げていく。顔を出さない歌手も多くなっているなかで、ボーカロイドはその存在も空想上のものだ。初音ミクは生きているわけではない。それなのに歴史を感じ、初音ミクが歌ってきた軌跡が新たな歌に付加価値を与えることがとても興味深い。

 まだまだどう伝えればいいかわからない感じなので、これからの記事で曲の紹介や考察などもやっていきたい(ボーカロイドに限らず)。雨の金曜日、ゆっくりお過ごしください。

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