見出し画像

映画「さかなのこ」の優しい世界

さかなクンの自伝的エッセイを原作とした沖田修一監督の「さかなのこ」。上映されているときは内容もよく分からないまま、なんとなく映像の質感が良いなと思いつつも結局見ず。今回サブスクに上がっていたことから見てみることにした。

結論からいうと、終始泣きながら映画を観た。シクシクタイプではなく、手の甲で涙を拭う小学生スタイルの泣き方だった。ここが映画館じゃなくて良かったと心から思った。

この映画、冒頭に「男か女かはどっちでもいい」とスクリーンに映し出される。さかなクン役、劇中でいうと主人公ミー坊が俳優の「のん」だ。最初は安易に男性であるさかなクン役を女性ののんが演じることに違和感を抱かないようにとの前置きなのかと思っていた。でも全て見終わったとき、その意味は異なっていたことに気づく。

ミー坊はとにかく純粋に海の生き物が大好き。そしてそれを全て肯定しいつでも味方で応援してくれるお母さん。ミー坊の見返りの求めない愛と優しさは伝染するように周りの友人たちにも影響していく。純粋さを貫き通すことは、大抵の人が大人になるに連れて諦めてしまう。しかし、ミー坊は海の生き物に限らず、全てのものに対してミー坊なりの純粋な愛を与えてくれる。大人になったミー坊に対して幼馴染が「本当に変わらないよな〜」と繰り返し言う。変わらないことへの憧れのような気がする。

ここからは少し、個人的な感想も踏まえ。
私は動物やお魚が大好き。よく動物園や水族館に行く。少しでも生き物たちの力になればと寄付もする。だけど、ヴィーガンではない。食事として牛肉も食べるしお魚も食べる。その相反する状況にモヤモヤとした気持ちがずっとあった。私って偽善者みたいだなと思っていた。しかし、映画のさかなクン(ミー坊)は大好きなお魚を美味しく食べる。釣りもする。釣ったあとは魚を躊躇なくしめる。一方で、しめた魚の頭部を不良グループ1人が踏んだ時、さかなクンはとてつもなく怒った。死んでいる魚を踏んだことに強く怒った。それはお魚に対して愛のない行動だったからだと思う。

洞穴からみた海みたい

私は愛護的な観点でヴィーガンになることを否定をしない。それも一つの答えだと思う。しかし美味しくお肉やお魚を食べることも否定しない。それも一つの答えで愛の形だとこの映画を通して感じたから。

私の中のモヤモヤとした感情の答えが一つでたことと、私が考える愛のさらに上の愛をこの映画が提示してくれた気がした。だから自分でもどういう感情なのかわからないけど涙がずっと止まらなかった。さすがにここは泣くシーンじゃないだろと自分に言いながらも涙が止まらなかった。優しさに心が反応して涙になっていたのかもしれない。

ミー坊は海の生き物が大好き。また、海の生き物に限らず目の前にある全てのものに純粋な愛を届けられる力を持っている。「普通の生活が送れなくなってしまってごめんね」と謝る幼馴染に対して「普通ってなに?わかんないよ」と純粋に答えるミー坊。この言葉が全てだと思う。普通にとらわれずに自分が思うことに突き進む純粋さに心を強く打たれた。

冒頭の映し出された「男か女かはどっちでもいい」という表現。わかりやすく男か女と言っただけで、本当は男か女か人間かお魚かそんなカテゴライズはどうだって良い。今ここに存在する君(人・魚・自然・優しい気持ち等)に対して素直な愛を受け与えてほしい。私はそう解釈した。とてもとても優しい映画だった。

普通の顔しているのにエラから砂出してカッコいい

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?