空洞に恋をした
ロックミュージックで虚しさや虚無感を描くことにそこはかとない魅力を感じるようになってきた。
ロックが持っているものはとても「怒り」だけではなく、人間が当たり前に持った「虚しさ」を描いても、なんら問題のない音楽だと思っている。
しかしやはり「虚しさ」の根底には怒りがあると思うし、「虚しさ」は少し怒りを変形させた感情に近いと思っている。
人がロックバンドを始める理由は僕は「怒り」であってほしいと思っているし、実際そういったバンドがたくさんいると思う。しかし近年、どう考えてもそういうバンドは減ってきている。
それが悪いというつもりは全くないのだが、僕自身としてはそんなバンドシーンがどうしてもつまらない。
衝撃すぎた「空洞です」
そんな僕自身が抱えてきた虚無感にスッと入ってきた名曲は、十何年も前のものであった。
そう、それは「空洞です」。
ゆらゆら帝国がリリースした最後のアルバム、「空洞です」の表題曲。
アルバムの最後に置かれたこの曲は、独特の美しさで異彩を放った。
なんと言っても、空洞です、空洞なんですこの曲は。
ひたすら甘く、長く、煌びやかで、質素で空虚。
原曲では初手からコンガや女声コーラスなど多彩な要素が組み込まれているが、構成は至ってシンプル。
四つのコードをひたすら循環し、約五分間の間ミニマムな音が鳴り続ける。
途中のサックスソロが入るまではVoの坂本慎太郎の歌声が非常に映える作風となっている。「空洞です」の前作である「ゆらゆら帝国のしびれ」ではより楽器隊の音がフォーカスされていたため、しびれとは対照的な印象を受ける。
そしてみなさんご存知の通り、この「空洞です」をリリースした後にゆらゆら帝国は解散を発表する。解散理由は「完成してしまったから」。
あまりにもカッコ良すぎる。
解散理由が「完成してしまった」からだなんて、そんな美しいことある??
いくつものバンドが方向性の違いや喧嘩わかれ、または売れないからなどを理由に解散していく中で、「完成した」と言い切ってバンドを畳む決心をしたゆらゆら帝国、カッコ良すぎますよ。
どこぞのsonic youthに聞かせてやりたい解散理由ですね。
「空洞です」 最大の魅力
まあそういうわけで、ゆらゆら帝国の実質的に最後の曲となった「空洞です」。そんな楽曲の魅力は、何度も言うようにその「空虚さ」にある。
空洞という言葉を曲の題材にしようとする時点で十分狂っているのだが、その空洞を見事に音で表現したゆらゆら帝国というバンドには本当に恐れ慄く。質素かつ美しいギター、楽曲に生命感をもたらすベース、二つの弦楽器を強かに支えるドラム。遅くもなく速くもない。そして突き放すわけでもキャッチーでもない三人の音は、この楽曲をさらなる高みへと連れていく。
シンプルなミドルテンポの曲って実際演奏してみるとかなり難しい。そんな楽曲を最も簡単にものにしてしまう、三人の楽器に対するプロフェッショナルな部分が垣間見える楽曲でもあると思う。
空洞を描く歌詞
坂本慎太郎が描く歌詞の世界も秀逸だ。
「僕の心をあなたは奪い去った それは空洞」
「なぜか街には大事なものがない それはムード」
世界の真髄を突いてるような、小さな街風景を描いたような、そんなアンニュイな雰囲気が総じて「空洞」を表す。
特に「意味を求めて無意味なものがない」という詩には感嘆の声を出さずにはいられなかった。2007年にリリースされた楽曲の歌詞が、まさに2024年現在の情勢を表している。整えられ意味ばかりを求める世の中で、無意味なものがどんどん淘汰されていく世の中。某コロナウイルスが蔓延した世界では、「不要不急」の行動は禁じられ、その名残はコロナ禍が明けた今もある。
無意味が持つ意味を、世の中はどんどん忘れていく。
その危険さを、その退屈さを、坂本慎太郎は2007年から見透かしていたのであろう。
最後に
そして最後に触れておきたいのは、やはりこの楽曲が出来上がった「過程」である。
ゆらゆら帝国はざっくり言うと、初期はガレージ、後期はサイケと、形を変えて活動を続けてきた。バンドが進み続けるごとに音数は少なく、より洗練された音が鳴っていった。
そして何度も言うが、最後にリリースされたのはこの名アルバム「空洞です」。
ゆらゆら帝国の最後は空洞であった。
いくつものロックジャンルを渡り続け彼らは空洞になったのだ。
それが彼らの正解だと示すように、彼らは解散した。
その過程が、バンドとして何よりも美しい旅だったと僕は感じる。
そんな空虚な美しさを孕んだゆらゆら帝国の「空洞です」。
いつまでも後世に聴かれ続ける楽曲であってほしいと切に願う。
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