見出し画像

ケモノとゴミと

ふと、京都に住んでいた時の記憶が生温かい空気を纏って蘇ってきた

繁華街の裏路地、木屋町や三条大橋の下で迎える早朝がなんだか好きだった

深夜、昼間に溜まったものを吐き出す人達
ケモノのようなものを取り戻す時間と場所

朝になると
路地に吐き出されたゴミを掃除する人が現れる

太陽の光が強くなるにつれ
ケモノの気配は
また街の中に薄まって溶けていく
まるで夢だったかのように

夜と朝、ケモノとヒト、当事者と傍観者
酔いと酔ったふり
様々な境界線が揺らぐ
あのゴミに溢れた裏路地の早朝に
どこかほっとするのは
自分の中に住むケモノが居場所を見つけるからかもしれない

今は夜街に出ることは滅多になくなったけど
出産という、それまで感じたことのない程の痛みと血塗れになる経験をして
一瞬一瞬が目の前の小さな人の死と隣り合わせの緊張感でいっぱいになり、胸を出したまま授乳しながら寝つけない夜、赤ちゃんが吐き戻した母乳まみれ、一日中する排泄分の処理、、、
あの京都の裏路地で感じた「ケモノ」とは
何か違うケモノ的なものが日常になった

その違いが何かを腑に落とし
言葉にする余裕なんてないままに日々に追われていく

境界線をくっきりと分けて
割り切った生き方を出来たらいいのだけど
器用にそれが出来ずに
境界線のあわいを行ったり来たりしてしまう
多分私は、そういう生き方しか出来ないのだと思う

揺らぎの中で見つけたものを
ぎゅっと掴まえたいけれど
いつだって隙間から
するするとこぼれ落ちて溶けていく

それでもそんなカケラたちを集めて
何か形あるものにしようと
今日も文章を書いたり、何かを創作しようとしている
あっという間に過ぎていく日常に埋もれて
大切な何かを失ってしまうのではないかという
怖さからなのか
それが何のためかなんて
はっきりと説明は出来ないけれど
表現したいエネルギーは止まらない


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?