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【解説】竹田青嗣『欲望論』(15)〜「身体」の本質観取②

1.「存在可能」と「能う」

 続いて、身体の本質の第2契機である「存在可能」と、第3契機である「能う」について。

 「存在可能」とは、私たちは自らのさまざまな可能性を、「身体」を通して開いていくことができるということだ。

 そして「能う」とは、このさまざまな可能性を、私たちは「身体」を通して「能う」(できた)と感じることができるということだ。

 たとえば、お腹が空く。そこで身体は、「食べる」ことによって、「空腹を満たす」という新たな可能性を開くことができる。その結果、私はこの「身体」において、「空腹を満たせた」と感じ取ることができる。

 逆に言えば、もしも私たちが、自らの「身体」を通して、この「存在可能」や「能う」の感覚を得ることができなかったなら、私たちはそれを「自分の身体」と確信することができなくなってしまうであろう。

 たとえば、食べても食べても空腹が満たされない場合、私は、この体はもしかして私の身体ではないのではないかと疑いを持ってしまうかもしれない。

 さて、この「存在可能」と「能う」の原初的現象を、私たちは乳児の「泣く」という行為に見ることができると竹田は言う。

 乳児が身体の否定的ノイズへの反射として泣くとき、「母」はこれを一つの要求と理解する。「母」の応答がエロスの満足と飽満を生み出すと、乳児は身体的定常性をえて眠り込む。このことが何度か反復されるや変化が生じる。第一に、身体的ノイズの反射としての泣くことは、「母」を呼ぶ一つの企投的手段へとその意味を変える。「泣く」は「子」にとってはじめの「能う」となる。第二に、飽満による定常状態への復帰はつねに眠りへと移行するわけではなく、「子」に退屈をもたらす。「子」は何らかの身体的行為を試みるが(手足の屈伸、手を握ること、手(指)を口に持ってくる、後には目で何かを追う、ほか)、この身体的運動自身が一つのエロスとなる。

 乳児の「泣く」は、はじめは身体的ノイズの反射としての「泣く」なのだが、やがて「母」(養育者を総称して本書ではこう呼ばれる)を呼ぶ企投的手段(存在可能の手段)へと発展するのだ。

 つまり身体は、この存在企投を可能にする当のものなのだ。

2.「母ー子」の言語ゲーム

 さて、こうした親子関係(養育する者ーされる者の関係)は、やがて、単なる身体的な「世話するーされる」の関係から、「言語ゲーム」へと展開していくことになる。

 はじめのうち、それは「母」からの一方的な「言語ゲーム」である。

 「楽しいね」「お腹すいた?」「痛かったね」「寒いかな?」等々。

 しかしこの一方的な「言語ゲーム」を通して、「子」は自身の内的情動の世界を分節することを覚えるのだ。

 初期的な「要求応答」ゲームにおいては、そこで生じる関係に、「母」がたえずさまざまな言葉を呼び与える。名前に加えて、「いい子だ」「かわいい」「お腹空いた?」「ねむい?」「さむい?」「おいしいね」「いやいや?」「うれしい?」「おもしろいね」等々。始発点では一方向的なこの「言語ゲーム」の意義は小さくない。母の一方向的言語ゲームによって、「子」は、外的世界とその諸対象をしだいに分節するのみならず、自己の内的情動の世界をも分節化するからである。

 この一方的な「言語ゲーム」は、やがて相互的な「言語ゲーム」になっていく。

 ここに、人間的エロスが「関係感情のエロス」として開かれていく土台があると竹田は言う。

 「子」は、「母」との間に関係感情のエロスを築くよう、自らのエロス性を絶えず改変していくのだ。

 はじめはほぼ全能的であった「子」の「泣く」と「むずかる」的要求は、やがてその全権性を奪われ、「子」は我慢しなければならなくなる。象徴的には、「子」はどこかの時点で、「母」の不在を泣かずに待つことを学ぶ。このとき耐えること、我慢することは、直接的な身体エロスを代償として、関係感情のエロスを確保するための一つの「能う」となる(泣かずに我慢して待つ「子」には、母親の優しさと、「よい子」という褒賞の言葉が与えられる)。
 ここではすでに要求–応答関係の逆転ということが生じており、「子」が対象としての「母」を独占するには、その承認をうるための「能う」が問題となる。

 それまでは全能だった「子」の要求は、やがて「母」からの承認を必要とするようになる。

 「子」は、この承認を得ることが「能う」存在にならなければならなくなる。全能性は挫折させられるのだ。

 このエロス性は、やがて、自己価値承認のエロスとして展開されることになる。

 エロス中心性が関係感情のエロス(母親との共–情動的エロス)からさらに「自己欲望」(自己意識の欲望)へと転移する上での最も本質的な契機は、ルールや規範の受け容れの理由が、直接的な「母親から愛されるために」から「私はよい子だ」(みなから承認される)という自己価値承認へと転移することである。

 人間の世界分節(世界をどう認識するか)は、まず原初的な「快ー不快」から始まる。それはつまり、「エロス的予期ー不安」の分節であるとも言っていい。

 そしてこの「エロス的予期」を得るために、あるいは「不安」を回避するために、私たちはどうしても、他者との関係の中で「承認」を得ようという動機を持つことになる。

 それは、「母ー子」の原初的な関係においてさえ見られるものなのである。

 次回以降は、この「母ー子」関係を一つの源泉とした「人間関係論」の観点から、「善ー悪」や「美ー醜」の概念を私たちがいかに獲得していくかが考察される。

3.深層文法

 しかしその前に、「母ー子」関係と言えば、フロイトやラカンらの精神分析学を無視するわけにはいかないので、ここで一言論じておこう。

 本書で竹田は、フロイトやラカンの思想について、(フロイトについては半ば評価しつつ)批判を展開している。

 その詳細は割愛するが、1点だけ述べておきたい。

 竹田は、フロイトやラカンらの精神分析学的議論を「深層文法」と呼び、その本質を次のように述べる。

「君は君の真の欲望を知らない」

 これが「深層文法」の常套句なのだ。

 君は、無意識では本当はこのような欲望を抱えており、それゆえにいま苦しんでいるのだ。

 精神分析学はこのような「分析」をするわけだが、もはや言うまでもなく、このような思想もまた、意識や欲望の背後の「本体」を想定するものである。

 竹田は言う。

 われわれはいまや「深層文法」の本質を了解する。それは、人間の心的領域の「不可視箱」の中の真実の見者たろうとすること、さらにその真実の見者であると僭称することにほかならない。

 私たちは確かに、「無意識」の存在を確信しうる。しかし私たちは、意識は「無意識」に規定されていると独断的に断じることは決してできない。

 なぜなら、「無意識」もまた、結局のところ「現前意識」において確信されるものでしかないからだ。

 「私」にとって自覚的でない(とくに否定的な)傾向性が他者によって指摘されるか、あるいは何らかのきっかけで自覚され納得的に了解されるとき、はじめて「無意識なもの」が存在するとみなされる。

 私の意識を支配する無意識。繰り返し述べてきたように、哲学は、そのような“確かめ不可能”な思考の始発点を敷いてはならないのだ。

(続く)

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