2012年9月19日「独白?叫び?」


 ぼーっつと白い紙を見つめている。とにもかくにも手は動かしていないといけない。考えることはやめてもいいが、手を動かすことは続けないといけない。

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・人はなぜ小説を読むのか


 本を読む人は何を求めて本を読むのか?ということを考える。本、というか小説だ。難しい知識を覚えるために小説をよむのか?深い哲学をするために小説を読むのか?僕はそうは思わない。彼らは現実世界で疲れきった心を癒すために小説を読むのではないか?たまりにたまってしまった「負債」をチャラにするために小説を読むんじゃないだろうか?

 体中にひもが結び付けられている。様々な色の糸、それぞれの糸のもう一方は様々なものに結びついている。車、家、人、国、街、恋愛、家族…。そういうものは生きる上で必要なものだ。必要とは言わないまでもあった方がより人生を楽しむことが出来るようになるものだ。しかしそういうものにうんざりしてしまう人もきっといるはずだ。そういう人々の「もういやだ」という気持ちを癒すために小説が必要なんじゃないだろうか?


 現代、世界は大分狭くなってしまった。だからどこにも逃げ道がない。だから僕たちはこの感情をどうにかするために何らかの道具に頼らないといけない。旅行に行くことができるならそれが一番いいのかもしれない。しかし旅行するには金がかかるから、家の中で遊んでいることに決める。手ぶらで遊ぶにも限界があるので必然的におもちゃが必要ということになってくる。

 しかしおもちゃで遊んだあとはちゃんとおもちゃを片付けないといけない。汚れをぬぐって、ちゃんと箱にしまう。そうすることで僕たちはおもちゃのない現実に帰ってくることができる。そうだ、俺はそういうことをきちんと説明した文書を同封したおもちゃを作りたい。それだけでなく、おもちゃに伴う危険性もちゃんと説明した…説明書がきちんと内在されたおもちゃを作りたい。ただそれだけのことなのだ。

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・白昼夢

 時々心が浮遊して気づくと全く見知らぬ土地に自分が立っていることに気づくことがある。その辺を歩いている人に「ここはどこですか?」と訊ねると、彼らは決まって「ブエノスアイレスに決まってるだろ?」だとか「ハバロフスク以外のどこだって言うんだ?」などという答えを返してくる(それもなぜか日本語で)。それはある意味で楽しいことだ。楽しいことだけど、同時に悲しいことでもある。


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・随筆


 考えることはやめてしまってもいい。でも指だけはせめて動かそう。言葉についてせめて誠実的になろう。僕はそんなことを考えている。そんなことを考えてどうなるんだってことは聞かないでもらえるかな。僕だってそれなりに真剣にやっているんだから。

 人間を描くことはできないかもしれない僕は。でも瞬間を描くことはきっとできる。なぜなら瞬間は僕の中にいくつも存在するから。僕という体、世界と糸でしっかりと結びつき、しかもそれらの糸がからまりあって一見ほどくのはほとんど無理かもしれない。でも僕はきっとできると信じている。あの瞬間を切り離して箱にしまって、誰かにみせびらかすことが出来るようになると信じている。

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 みせびらかすってなんだよ。そんなものみせびらかすなんて、宝石や
ブランド品を身に付けて悦にひたっている成金と同じじゃないか。そんなのは、駄目だよ。

 駄目だよ。


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・随筆②


 とにかく何も考えずに指だけを動かす。頭のたがをはずす。

 たがをはずして蓋をしていたつぼの中から何かが飛び出してくるのを待つ。


 何がとびだしてくるのかはわからない。忌み嫌われた虫が出てくるかもしれないあるいは誰でも喜ぶ青い宝石が出てくるかもしれない。口に苦い良薬あるいは覚せい剤が出てくるかもしれない。いずれにせよ僕は壺のふたをあけてみることにする。たがをはずしてみることにする。


 だからといって何が出てくるのかということはわからない。わかるはずもない。ただ僕は指のいうとおりに指を動かすだけだ。いや、というか指が動くのを勝手に見ているだけのことだ。それはなんていうかとても、というかあるいはむなしい行為だ。自分の指に聖霊がのりうつって、かってに聖霊が指を動かすのを見ているのに等しい。気分としては退屈な演劇を延々とみせられているのに等しい。


 僕は色々とあてのない文章を書くのは得意かもしれない。だけどあてのない文章を一つの点へと収縮させるのは苦手だ。書いて行く内にあれもこれもとすぐに付け足したいという気持ちがわいてくるからだ。その気持ちはきっと心の中にある泉の中からわいてでてくるのだろう。その泉の水がどこから出てくるのかはわからない。水脈がどこにあるのかということは結局人間には知ることができないものなのだ。


 


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・小説の構想

 神様がいて、神様が力をとある騎士に与える。


 騎士は王様の命令のもとに悪の大臣を倒したり、森の魔物を倒したりする。そうやって名声をあげていく。やがて騎士に神様の力が宿っていることに気づいた王様が自らの地位を脅かされる危険を感じて騎士を殺害しようと計画する。信じていた王様に裏切られた騎士は長年懇意にしてきた王女をさらって国の外へ出ることを決意する。

 ありがちな話だ。ありがちな話だけど物語であることにはかわりない。初めに骨格を形成してしまえばある程度物語を書くことはできる。できるはずなんだ。

 たとえば森の魔物を倒すシーンについて色々と書くことはできる。


 森の魔物はどんな姿形をしているのだろうか。


 腹が出ていて、目玉は飛び出していて、牙は口から飛び出している。舌は胸のあたりまでのびるくらい長い。爪も牙も角もするどい。騎士は剣をかまえて魔物と対峙する。木々の生い茂っている森の中なので大きく剣を振るうことはできない。一方魔物は木の枝の上に飛び乗ったり、木に隠れたりすることができる。地の利は完全に森をすみかとしている魔物のほうにある。

 さてさて騎士はどうすれば森の魔物に勝つことができるだろうか。ということを考えてみる。

 魔物の描写について、古典文学のそれを真似てみたりする。古典の真似をすればそれでいい、というものでもない。読者が楽しむということが何よりも重要なのだ。

 僕は言葉を費やして冒険することしかできない。それはある意味で不毛なことだ。荒れ果てて乾ききった大地に作物の種を無造作にまくのに等しい。しかしそれでも僕はこれをやめられないのである。やめられないから、やめられないなら、突き詰めてみるのも一興ではないだろうか。

 


 
 文学なんてものに大した価値はないのかもしれない。しかし価値なんて一体誰にわかるというんだ?そんなものはどうだっていいことだ。

 僕らはパンがあれば生きることができる。パンは小麦粉があればできる。小麦粉は風車があれば作ることができる。風があるなら風車はまわる。今日もかわらず風車は回っている。それなら他に一体何をのぞむというのだろうか?


「小麦は誰が育てるの?風車は誰が組み立てるの?君の言っていることには色々と矛盾があるよ。頭が足りないね。だからそんな夢物語みたいなことしかいえないのさ。」


 声がきこえても気にしない。僕は、僕はただ。


 クソっ。

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