自分は『推し』や『推し活』といった言葉が嫌いだ。 とはいえ、自分の好きな物や人に熱中する事自体は別に偏見を持っている訳では無い。それは個人の自由だと思う。 ・・・では何故、自分はその言葉が嫌いなのか。 それは、その言葉が購買意欲を煽るビジネス用語だからである。 そもそも自分はビジネスというものが嫌いだ。 ビジネスが嫌いというか利益至上主義な今のビジネスが嫌いだ。 感情というものは自分の中から出てくる純粋なものだと思っている。だから誰かを好きになり、応援したいという気持
これに関しては、正直ずっと前から答えは出ていて。 ひとことで言えば、人が信じられないのだ。 幼いころは割と辛い日々だった。 親から暴力を受ける事が多かったし、いじめも経験した。 今でも外見コンプレックスなのは幼少期に外見を馬鹿にされる事が多かった事が原因だと思う。 そんな幼少期を経て、自分は人が信じれなくなった。 誰かに優しくされたとしても、それは同情でしかないのではないか、本心では自分を見下しているのではないかと思えて、不安をいつも抱えていた。 ただ、逆の立場だったら
心の病、まぁいろんな病名を聞く。 でも実際のところ、それはただの個性では無いか、と自分では思っている。 では、何が苦しめているのか。 自分は心の病が『普通じゃない』と思い込んでしまう事が原因だと思う。 他人と違う事は好ましくない。 この国ではそんな考え方が一般的だ。 やたら自由を叫びながら、本心でははみ出す事を何より恐れているのだ。 とんでもない矛盾であると思う。 本質的に個性を否定する風潮が人の心を蝕んでいくのではないか。 そうさせているのは心を蝕まれた本人でなく、個
自分が相手に対して自分の考えを述べたとして 自分の言葉はたぶん、他人にはただの余計なお世話くらいにしか思われていないと思う。 なぜそう思うかと言えば、相手にとって自分は大切ではないからである。 もしこれが自分の大切な人の言葉だとしたら、言葉は一語一句同じだとしても、その言葉を肯定的に受け入れようとするだろう。 要するに、余計なお世話とは大して親しくもない相手から指摘される事に抵抗があるという事で、それはただの感情表現でしかないのだと思う。 故に、孤独な自分は他人にとって
最近話題になっているSNSなどでの誹謗中傷。 もちろん傷つけるのは言葉なのだが。 果たして話す事でここまでの事態になるのだろうか、と思い考えてみた。 自分で出した結論として、それが目に入るからより心をえぐられるのだと思う。 そしてそれは削除されない限り消えず、そして数が増え続けていく訳だ。 その結論に至った時、SNSはまさに凶器以外の何者でも無いと確信した。 確かにそれは人を殺めるのに十分すぎるのだ。 残り続け、何百何千と増え続けていくという事はいってみれば絶えずリンチを
残念ながら、今の世界はこれが現実だ。 それは資本主義の本質を間違えているから。 そもそも資本主義とは何か? 高卒の自分が語るのもなんだが。 要は各々が競争して世界を発展させていく、というものではなかろうか。 競争の原理がある以上、資本主義は格差を容認していると思うし、個人的にはそれが健全であると思う。頑張った人が報われるのは正しい事だ。 だがいつの間にか、資本主義はその本質を逸脱して利益のみを追求する姿へと変貌していったのではないか。つまり利益の大小で人の立場が決められ
正直、良く言われる『見た目より内面』なんて戯言だと自分は思っている。 第一印象は見た目な場合がほとんどだ。 その時点で見た目が良い人は何百倍ものメリットが与えられる訳で。 なんの苦労もなく異性が寄って来て頼んでもいないのにチヤホヤして貰えるわけだ。 こちらからすれば羨ましい以外の何者でも無い。 自分は幼少期から外見にコンプレックスを持っている。 それは今も拭い取る事は出来ない。 何より自分は誰かに愛された事が無いからだ。 こんな自分を愛してくれる存在がいたのなら内面が大切
良く『〜が普通』という言葉が使われる。 果たして、この『普通』とはなんなのか。 自分自身、この言葉には悩まされた。 言われる度に傷ついた。 自分は普通では無いのだと。 その一方でその言葉を用いた相手に憤慨したりもした。きっと自分自身に用いた相手と同様の解釈があった為で、故に自分が用いる立場でもあった。 その概念が崩れたのは大切に思っていた人のある言葉だった。 『自分は貴方とは違う、私は貴方じゃ無い』。 言われた時にはその意味に気づけなかった。 その人との縁が切れた後、初め
基本的に、人は自分の為にしか動けないと自分は思っている。 だからといって、実はただの自分本位かと言えばそうではない。 言葉だけで見ればそう思われるのも仕方ないかもしれないが。 相手の為に、なんていうのはただの自己満足でしかない。実際には自分が満たされたいのが本当だったりする。それは確かに自分本位でしかない。 でも、相手に寄り添う事が出来る人は自分本位では無い。 その言葉の意味は、今の相手をそのまま受け入れる事。 つまり、否定をしないという事なのだ。 それこそ本当に相手の
本当の孤独とは・・・ それはつまり、誰にも存在を認識されない事。 存在を認識されないとは・・・ 誰にも必要とされない事。 誰にも必要とされないとは・・・ 誰からも連絡が来ない事。 誰からも連絡が来ないとは・・・ 誰の心の中にも自分が存在しない事。 誰の心の中にも自分が存在しないとは・・・ 別に自分がそこに存在しなくても良いという事。 利用価値ならあるのかもしれない。 でもそれは相手を満たすだけ。 存在は見えても、相手の心には映っていない。 相手の心に自分が映ってい
原作はライトノベルらしいが、自分が触れた媒体はアニメであった。 とあるYouTube動画にて、鬱回が存在する作品として紹介されていた。 『キノの旅』という作品の『優しい国』という回。 観てみたが、自分としては別に鬱になる様な話では無かった。それよりもいろいろと考えさせられる話だった。 さて、作品を紹介しておいてなんだが、詳しいあらすじについてはここでは書かない。 本編は自分で観ていただきたい。 その上で自分が思う事を書かせていただく。 『優しい国』とはなんだったのか。
自分の中で道徳とは人として守るべきモノであり、倫理とは道徳に個人の感情を許容したモノだと思っている。 別の言い方をすると道徳は万人に不変であり、倫理は個人差があるモノという事。 倫理とは道徳という土台があって、その上に成り立つモノではなかろうか。 だがしかし、昨今では道徳を軽視して倫理ばかりを追求している様に感じる。 よく』自分と他人は違う』という言葉を聞くが、この言葉がそれを体現している。 確かに自分と他人は違うモノだ。 しかし、人である事に変わりは無い。 ならば道徳
楽、という文字。 自分にはふたつの使い方がある。 ひとつは『楽しむ』 もうひとつは『楽をする』。 今の世界にはどちらかというと後者の方が一般的に普及している様に感じる。 これは大変由々しき問題だ。 『楽しむ』というのは心を満たす為に存在するものである様に自分では思う。 そしてその方法は様々だ。 苦労を伴う事もあるだろうが、満たされているならそれもまた楽しいのではなかろうか。 一方で『楽をする』というのは労力や苦労を感じない様にする事だと思う。 技術が発達して便利になる事
自分の中では、性善説は理想であり性悪説は現実である、と思っている。 どちらが正しい、ではなく どちらも必要なモノだと思う。 理想という目標に向けて現実をより良くする為に努力する事は大切なことだと思うからだ。 ところが、どうにも世間では性善説を現実だと思う風潮があるようで。 自分自身、長年そう思い込んでいたものだ。 しかし、その考え方だと、ただひたすら辛い事に気づいたのだ。 自分の中での方程式として 『現実=当たり前、常識』というものがあった。 そこから外れた事は常識を
いわゆる発散の場所。 俺は49歳になる男、独身で貯蓄も無い。 見た目も悪くなんの取り柄もない。 いわゆる『負け組』というヤツだ。 そんな自分が社会に反感を持つのはある意味で必然である。 誰もが自分が可愛い故、とかく他人のせいにしたがるモノ。 とはいえようやく昨今ではただ他人のせいにするだけでは成長が無いことに気付いた次第。 どういう事かといえばただ感情のままに言葉を垂れ流すのでは無く、相手の立場になって物事を考えてみる事を覚えたのだ。 いわゆる『多角化』というヤツである