中2女子のカナダ滞在記 1

 外国の匂いがする。

 降り立ったバンクーバー国際空港のロビーで、中学2年生の私は絶望して立ち尽くしていた。周りを見渡すと、白い肌に高い鼻、当たり前のように行き交うめちゃくちゃ早い英語の会話。同行者である塾講師の椎名先生と、初対面の他のクラスの女の子以外、ぱっと見たところ日本人は見当たらない。どうしてこうなったんだ。

 話は1ヶ月ほど前に遡る。中学生になる直前、兄弟も皆通った馴染みの英語塾に通うようになり、幸い相性が良かったのか成績もまぁまぁ良かった。毎週水曜の夜、少し面倒だなと思いつつものんびりと学習していた。そんな夏休み前のある帰りの車中、

「あんた来月、夏休み入ったらカナダ行くよ。」

 運転席の母からサラリと伝えられた言葉が一瞬理解できなかったが、勉強後+夜で眠気のピークだった頭に十分な衝撃が走った。

 「は!?え!?カナダ!?なんで!?」
 「椎名先生と一緒に。ほら、お姉ちゃんも前に行ってたやろ、ホームステイ。」

 うちの塾では、生徒対象に希望者を募って塾長の椎名先生の伝手でカナダへホームステイができる。8つ上の姉も、確か高校生の頃にカナダへ渡航していた。まさか、その企画に自分が行くことになるとは露ほども想定していなかったため、衝撃の直後すでに私は母を諦めさせるための理由を脳内で必死にかき集めていた。

 「え・・・お金は?めっちゃ高いんやろ外国行くのって。」
 「子供がお金とか気にせんでいいのー。もう申し込んであるで、行ってきな。滅多にない機会やで。」
 「そんなん一言も聞いてなかってんけど!せめて私の同意を・・・」
 「聞いたら怖気付いて行かんって言うやろ。」
 
 間髪入れずピシャリと言われ、私は唸って口を紡ぐしかなかった。四人兄弟の末っ子、蝶よ花よと可愛がられ・・・ることは、激しい性格の上兄弟たちからそんな扱いを受けたことはないが、まあ大抵のことは姉・兄たちに任せれば解決してきたし、性格は内弁慶で超がつくほどの人見知り。日本人相手であっても会話はすごく苦手だし、初対面の人とは多少愛想良くするが、会話を続けることが難しい。顔見知り以外の接触を避けてしまうことは自覚があったし自分でも問題だとは思っている。そんな私が、言葉もろくに伝わらない、知り合いもいない何もわからない外国に行く・・・?

嫌だ。すごく嫌だ。

 同じように数年前にカナダに渡った姉は勉強ができて、人付き合いが上手くて、今アメリカで看護師の勉強をしている。その姉への憧れはある。同じように挑戦してみたい、姉と同じ景色を見てみたい好奇心もある。でも、やっぱり怖い。何より私をこの時点で支配していたのは未知の体験への恐怖だった。

それでも時間はこちらの心の準備などあろうが無かろうが関係なく無慈悲にあっという間に過ぎていくもので、気がつけばしっかりと準備も済ませ、気がつけば飛行機に搭乗し、気がつけば見事異国の地へと足を踏み入れていたのである。

 夏休みに入ってすぐの七月の終盤、蒸し暑くやかましく蝉の鳴いていた日本の夏とは違い、降り立った空港内は日本よりも体感温度がとても低かった。いっそ寒い。空調が効き過ぎていやしないだろうか。そんな中をタンクトップで闊歩する体格のいい白人男性を横目にみて信じられない気持ちになりつつ、私は先生たちの後をトボトボとついて歩いて行った。
 何度も練習した入国審査で、初めて面と向かって1体1で話す黒人男性の眼力にひるみながら、sightseeingの発音は大丈夫か、伝わったのかとビクビクしながらなんとかこなし、意外とお茶目な男性の素敵なウィンクに背中を押され、いよいよ対面するホストファミリーの待つ到着ロビーへ向かった。
 
 私の受け入れ先は、椎名先生と古くからの知り合いである1人暮らしのおばあさんらしい。姉も数年前の滞在で会ったことがあるらしく、物腰の柔らかい優しい方だそうだ。
 ただ1点、元はドイツ人で紆余曲折あって現在はカナダで生活をしているということは引っかかった。母国がドイツということは、私の拙すぎる英語力では会話が成り立たないのではないだろうか、匙を投げられてしまうのではないだろうか。そんな不安がどんどん大きくなりつつ、なんとなくどんどん重く感じるキャリーケースをごろごろと引っ張って歩いた。

 到着ロビーが見えてくると、沢山の出迎えの人が列を成していた。全てアルファベットの大文字で何かが書かれた大きなスケッチブックを持っている人、待ち人を見つけて大声で叫びながら手を振る人、じっと到着した人々を見つめて動かない人など様子はさまざま。

どれが私のホストマザーなんだろう、と年配女性を視界に捉えては構えてみるが、先生はどんどん先を急ぐばかり。実はホームステイじゃなくて先生たちと一緒に観光してすぐ帰るだけなんじゃ・・・なんて無理のある期待をし始めた矢先、先生が親しげな挨拶を交わしながら一人の女性の元に歩み寄りハグをした。

グレーの髪と、同じ色の綺麗な瞳。柔和そうな顔立ちの、優しい笑顔が印象的な女性。これが私の人生でとても大切な存在となる、ケイトさんとの出会いだった。

ケイトさんと先生が一通り挨拶を済ませると、さて、と言うようにこちらに向き直った。Hi.と言われ、私は持てる愛想を総動員して精一杯の笑顔を貼り付け、「マイネイム イズ リカ コバヤシ。ナイストゥミーチュー。」と、何度もしたイメトレ通りの定型文を発し右手を差し出した。聞き取ってもらえただろうか。ドキドキ。

するとすぐ、「リカ。グッドネーム。ナイストゥミーチュートゥー。」とにっこりケイトさんが返してくれた。握ってくれた手のひらが柔らかく私の冷たくこわばった手を包み込んだ。第一関門は突破した。ホッと一息をつく。良い名前、と言ってくれたことも、お世辞でも悪い気はしなかった。

が、次の瞬間ベラベラ〜っと文章を話しかけられ、驚いたままなんとか聞こえた単語数個だけから内容を推測しようと固まりつつ、先生に助けを求め視線を向けると、すぐに先生が横から何かを話してくれて、ケイトさんも先生の方に視線をやって何かを話している。

良かった、これでとりあえず何かあれば先生に助けて貰えばなんとかなりそうだ。そんな風に高を括った時だった。

「さて、じゃあ小林さん、僕らはホテルに向かうから、1ヶ月頑張ってね!」

そう言われ、え、と言う間もなく、先生たちはあっさりと空港を後にしてしまった。後に縋りつきたい気持ちを必死に押しとどめながら、どうしよう、マジでか、やっていけるのか私!?とパニックになる私をよそに、私のスーツケースを自然に受け取ったケイトさんはニコッと笑って、家に帰ろうか、と言うような英語を話した。頷くしかなかった。

こうして私の、生涯忘れられない1ヶ月間はスタートしたのだった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?