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【私情】父の死と向き合って

先日、父が急死しました。

母親からあわてた電話がかかってきて
緊急搬送されていると
急いでタクシーを止め、東京駅に向かい、
タクシーの中で新幹線の予約をしました。

めちゃくちゃ心配で、
ドキドキというか鼻の奥にある、
スクイーズみたいな、
ちぎったら絶対気持ちいい何かが
臭くてたまらないような感じ
実際は臭くない
吐き気みたいな感じがして
ひたすらひたすら、
大丈夫と頭の中で繰り返していました。

でも新幹線に乗って50分くらい経ってから、
先に病院に着いていた姉から
ダメだった、さっき亡くなった
と連絡がありました

あーって思いました。
ヘッドホンをしていて
BUMPが流れてきて
花の名って曲が流れてきて
その次に涙が流れました。
久しぶりに人目を顧みず泣きました。

最後に会ったのは2ヶ月前、
自分がちょうど心病んで
お仕事をお休みをいただいていた時でした
でも、何を話したか覚えてないんです。
思い出そうとしても何も
それがすご悲しくて、
思い出そうとすればするほど涙が出て
大丈夫、以外の言葉が浮かばず、
母の顔と姉の顔を想像しようとしましたが
何も浮かびませんでした。

残り1時間弱の新幹線がクッソ長くて、
ああ、ポケットティッシュもっと持ってたはずだったよなーとか、地元の駅から病院までの道のりを検索したり、やらなきゃいけないことを想像してみたりとか、どっちかっていうと意味のない寄りのことをひたすら考えてました。

駅に着いて、タクシーを止めて
鼻声で病院の名前を運転手さんにお願いして、
オジ運転手だったので、その病院の昔の名前とか言われて、どうでもいいから早く出してくれと思いながら、外を見てました。
くっそ晴れててムカつきました。

病院に着くまでの道のりが、
知らない街みたいで、めちゃくちゃ怖かった

病院に着いて、緊急外来窓口を探して
患者の息子ですと言い入り、
待合室で待つ家族のもとに向かいました。
姉は泣きじゃくり抱きついてきました。
不思議と母は落ち着いた表情で電話しており、
いつも通りで少し安心しました。

病院の方が、緊急治療室的な場所に通してくれて
父の顔を見ました。
本当に死んじゃったと思いました。
その顔が一生忘れられません。

椅子が並べてあって、葬儀屋が迎えにくるまで
しばらく父のそばにいられました。
母と姉も少し落ち着いてきて、
まだこの辺にいるのかなあとか
大変だったねとか、
正直あんまり内容覚えてないですが
世間話より薄いけど、互いを思いやる会話をしました。

それから、遺体の処置をしてもらって、
白衣でピンヒールの嫌いなタイプの女の人が裏に案内してくれて
アルファードに父と母を乗せ、
別の車で姉と僕は自宅に向かいました。
めっちゃ晴れててイチョウが綺麗で、
17時の鐘の音がより涙を誘い
今朝シャワーを浴びた時に耳に入った水が気になりました。
同じ日のことに思えませんでした。

実家はマンションで、父は結構ガタイがよく、
まだ死ぬには若かったので、
家に入ることができませんでした。
まあ色々あって。

だから葬儀会場に安置という形になりました。
父は運転中に意識不明になってしまったので
警察署に預けていた車を僕が取りに行くことになりました。
運転は苦手じゃないんですが、
その日は3回事故りそうになりました。

いつもとは違う夜でした。

父を安置し、
棺桶に入れるところまで一緒にいました。
冷たくて、生前より痩せてみえた父は、
まだ現実とは思えませんでした。

その日は母と姉を車に乗せ、
自宅に帰りました。
車と運転が好きだった父なので
車に乗るとみんな泣いちゃいます。

でも気持ちはわかる、と思いながら
父しか運転しなかった道を帰りました。

食欲もなく、眠くもなく、
ただ時間だけが過ぎました。
気づいたら寝てましたけど。

そっからは通夜、葬儀など色々あり過ぎて
記憶も虚ですが、
ただたくさん泣いたのは覚えています。
泣いて、夜は正気に戻る日々
普段の仕事時間は泣いてて、
夜帰ってきて自分の時間みたいな感じ

一番辛かったのは、
父と最後まで一緒にいた母の話です
ここに書こうとするだけで涙が出そうなので、
詳しく書くのはやめます。
中央線に乗っているし。

葬儀など諸々が終わって、
ひとしきり悲しんだ後は、
手続きや相続など、めんどくさいことの嵐でした。

父は色々な手続きや保険とか、
生活の諸々に必要な事務作業を
1人でやってしまう人でした。
母はそれに任せっきりで基本何もわからない。
まさに大黒柱が抜けたお家みたいに、
家族はグラグラしていました。

だから探偵みたいに
一つ一つ調べて、父が残していった全てを整理することから始まりました。
色々見つかって、母は倒れそうと言っていましたが、心底倒れないでほしいと思いました。
元々親を大事に思う性分ですが、
これ以上親を大事に思ったことはありませんでした。

父は少し高圧的で、ちょっぴり苦手でした。
仕事で嫌なことがあると不機嫌になり
家では話しかけづらい雰囲気、
母に少しあたったりするような人でした。
子煩悩なのであまり子供には言いませんが、
細かくて口うるさい父だったので、
似た性格の姉とはよく対立してました。

僕が高校生くらいになってからは、
あまりそんなところは見せなかったですが、
陰で母には言っていたと亡くなってから聞きました。
僕は無意識に、父がいる場で自分のことを話せなくなっていました。家ではひたすら無口
喋ると面倒なことになることがわかっていたのか、心のどこかで父を怖がっていたのだと思います。家では言葉が出ない子供でした。
父がいなくなってから、母と姉の3人でいると
自然と自分のことが話せるようになって、
不思議だなと思いながら、同時に悲しくなりました。
別に父は恨んでなかったので。

もっと話したかったと思ったんです。

秘密主義な父でしたので
会社のことや友人のこと、その他諸々、
家族以外のつながりを家族に明かさないような人でした。何でかはわかんないけど。
家族には見せない一面を持つ人でした。
母は40年以上一緒にいても、
わかんないことばっかりだねって悲しそうでしたけど、
でも父の気持ちもわかる、
僕も似たようなところがあるなとも、
亡くなってから考え思いました。

自分のハマっていること、自分の好きな人のこと、自分が思っていること、家族を大事に思っていること、感謝、謝罪、秘密、
幸せを感じる瞬間のこと、もっと話したかった。
だから母に今たくさん話しているんだなと、
父がいた時より口数の増えた自分が別人のように感じました。

すみません、長くなりました。
父が死んで一番思うことは、
当たり前でありきたりで、普通で勉強にも啓蒙にもなににもなんないんですけど、
家族は人生の中で、
なんかめっちゃ大事なんですよね
自分の人生を変える力を持ってる
だから大事なんじゃなくて
大事だからそうなんだけど

まあ人それぞれ家族の事情があるのはわかってますが、これは、僕が僕の家族に思ったことです。

秘密を話していいし、怖がるべきものではないし
幸せなところを見せるべきだし、
親の前ではカッコつけず子供であるべきだし、
その中で少し大人びたところをチラ見せして、安心させるべきだったなと。
父に対してはそう思います。

父が悪い人のように少し見えてしまう書き方になってしまったので、訂正のために書きますが、
父はカッコつけで、プライドが高く、
細かく過保護で心配症でしたが、
家族思いでカッコよく、頼れる父でしたし、
悪いところは人間味があってすごく好きだし、
昭和だけどアツい男だったと思っています。

亡くなってしまってすごく残念だし、
東京のうまい店も連れて行きたかったし、
孫の顔も見せてやりたかった。
でも、ここで成長ポイントをくれた父に感謝もしています。
もちろん今までもしています。

東京に出る時に
金のことなら心配するなと背中を押してくれた父が今もまだ背中を押してくれています。

父の死と向き合って、
老け込むのか、いい男になるのか
僕を見ていて欲しいです。

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