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移民の歌

前日から雨が降るだの降らないだのと、空模様より先に天気予報がコロコロ変わるのだから始末に困る。こうなれば自分で雲行きを見て予想するしかない。とはいえ天気の知識などなく、最後には「当たるも八卦、当たらぬも八卦」と占いかサイコロ賭博かという勢いで出かけた昼下がり。幸運にも帰宅まで雨に降られることなく、無事に用事を済ませることができた。
これなら最初から茶碗にサイコロでも放り込んで、出た目でさっさと出かければよかった。
人工衛星まで飛ばして、空の上からずーっと雲の様子を観察してるってのに、サイコロで決められたら天気予報もかたなしだ。

曇り空の下、ちょっと離れたホームセンターまで自転車を走らせて用事を済ませてきた帰り道、だらだらと続く長い坂を上って行くと、坂の上の方から奇声を上げながら自転車で降ってくる奴がいる。
やけに古びた自転車に乗り、着ているのは妙に派手な柄の赤いシャツだ。これで奇声を上げているのだから、どこからどう見ても相当にアブナイ人なのは間違いない。
少し近くまで来たところでそのアブナイ人がおじいちゃんと呼ぶには少々早く、おじさんと呼ぶには時すでに遅しという頃合いだと気付いた。
髪はすっかり薄くなり、わずかに残った髪も大半が白い。首の周りは痩せて肉が落ち、たるんだ皮がシワを作っていそうだ。決してゆとりのある老後を過ごしているようには見えない。
いろいろ抱え込んだ年寄りは余計にアブナイ。駅のホームで駅員に絡むのは酔った会社員か年寄り、しかもおじいさんがとにかく多いと聞いたこともある。
そうでなくともいろんな輩がうじゃうじゃといる世の中だ。君子じゃなくとも危うきには近寄らないのがいちばんと、赤シャツじーさんとは反対側の道の端をゆっくりと上って行った。

とはいえ「一方通行、自転車は除く」の車線は1つだけの道だ。うまく車でも来てくれれば良いが、すれ違う瞬間は2〜3メートルほどしか離れない。
どんどん近づいてくるというのに赤シャツじーさんは相変わらず奇声を上げているままだ。
すれ違う瞬間を最小限にするためには、こちらの速度を上げて、一瞬でやり過ごせばいい。そう思いついたが、何せコロナで人生最大の運動不足の身体に、足元にあるのは上り坂ときている。スピードを出すより先に食ったものが胃から出る方が早そうである。
こうなったら待ち構えて「俺の刃圏に入ったら斬る」オーラを全身から湧き立たせて、迫力で対抗するしかない。刀はもちろんカッターすら持ってないのというのに、僕は自分の自転車を路肩に寄せて赤シャツを待ち構えたのだった。

そんな逡巡をしている間に赤シャツは奇声を上げたままどんどんと近づき、路肩の僕を不思議そうな目で一瞥して(8割がた無視して)、通り過ぎていった。
赤シャツが通り過ぎたあと、上げていた奇声がレッド・ツェッペリンの『移民の歌』だったことに気がついた。
しかもキーは原曲のまま、ロバート・プラントが歌ったオリジナルのまま、スクリーミングの合間の歌詞もしっかりと歌っていたのだった(かなり無理があったことは言うまでもない)。

赤シャツがどうして『移民の歌』を歌っていたのかはわからないが、僕は妙な感慨さを感じた。
20世紀の半ばに生まれたロック・ミュージックが、梅雨の曇り空の下、古い自転車に乗った年寄りが歌うようにまでなっている。
1950年代にロックンロールが生まれてから70年経って、世の中全体に広く馴染んだのだなあと思ったのだ。

自転車に乗りながら『移民の歌』を歌う年寄りがいるのなら、窓全開で『パラノイド』を歌いながら車を流しているタクシーの運転手や、買い物帰りに『レベル・レベル』を歌ってるおばあちゃんなんてのもどこかにいるのかもしれない。
学校の帰りに『電撃バップ』を歌いながら帰ってくる女子高生がいたら、チャーミングすぎてファンになりそうだ。



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