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なぜに小説家はペンネームを使うか

 小説家の多くはペンネームを使う。
 なんだかとても奇妙である。

 「名前というものはついていることが大事なのだ」と何かで目にした。テレビドラマの中で耳にした台詞だったかもしれない。
 確かにその通りだ。名前がつけられていないことで起きる不便さを想像すれば、名前はつけられているだけで役目を果たしている。
 リンゴに「リンゴ」という名前がついていなかったら、「木になる果物で、赤くて、おおよそ丸くて……」と説明しなければならなくなるのだ。しかもそれがリンゴだと伝わる保証もない。もしかしたらザクロのことかと想像してしまうかもしれない。

 名前も基本的には同じだ。
 名付けた人の思い入れや希望が織り込まれている分、いくらか複雑にはなっているかもしれないが、個体を識別する符号という意味では「樹 恒近」が「A=^km-w;239_.>a;s/u」であっても大きな違いはないのだ(実際は大いに不便だけれど)。
 ともあれ、今を生きるおそらくほぼ全ての人たちは名前を持っている。その中に一部、本来の名前がありながら別の名前で社会生活を送る人たちがいる。芸名を使う俳優、高座名を使う落語家、古くからの名跡を継いだ歌舞伎俳優たち、互いにコードネームしか知らない諜報機関のエージェント、雅号俳号を名乗る茶人歌人俳人、そして小説家。

 落語家や歌舞伎俳優のように好む好まざるに関わらず、名乗らざるを得ない世界の人はもちろん、俳優のように広く顔が知られているがゆえに公私の切り分けに名前を使い分けなければならない理由はよくわかる。そうした理由と横一列に並んだとき、どうして小説家?と、微かな違和感を抱くのだ。
 頭の中に浮かんだ小説家が筆名を使う理由は一つ。小説がいかがわしく、怪しげで、常識からはかけ離れているからだ。

 小説の中ではどれだけ残虐に人を殺そうが、悪意の塊のような人間が周囲の人々を悪どさの限りを尽くして絶望の底に突き落とそうが、なんでもありである。小説は事実とは直接の関係を持たない「フィクション」だからだ。
 とはいえ人間を2センチ刻みに切り刻んで魚の餌にしてみたとか、年端もいかない幼女を散々凌辱してさらに木に吊るして生きたままカラスに突かせたとか、現実社会でそんなことが起きたら13階段へまっしぐらというおぞましさである。
 「これは小説なのだ」と頭では分かっていても、「これを書いた作家はきっとそんなことをしてみたいと考えてるに違いない」「作家の秘めたものの表れなんだ、きっと」と作者の実体と結びつけてしまう。こうなるともうお手上げである。
 ペンネームは小説と書き手の実体の中間に置かれた形代、身代わり、今風に言えばアバターみたいなものなんじゃないのかなと思う。

 かくいう自分もこうして筆名を使っているのだが、仮面・形代にしてはどうもフィット感がイマイチで、新年からは以前使っていた筆名をもう一度使おうかなと考えている。
 エゴサーチしてみても一つとして出てこなかったし。
 年末まであと2週間。それまでにはどうするかを決めよう。
 

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