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「億越え」云々と書いたら、速攻で友達からメッセージが来た

 昨日の読書記録を読んだ友達から「億越えがどうこうって、お前、カネに興味なんてあったけ?」とメッセージが届いた。

 物欲至上主義みたいな時代だった高度成長期に育った身だから、バブル前夜までは健全な物欲があったけれど、それでも世の中全般からすればささやかなものだったと思う。
 「物より経験」と格好をつける気はないが、元来どうも物欲が希薄なようで、年齢を重ねるごとにその傾向は増すばかり。病気をした後はさらに拍車がかかった感じがする。
 僕の物欲の希薄さを知っているがゆえに、友達もどうかしたのかと気になったらしい。

 実際のところ、相変わらず物欲は薄い。
 経済中心の世の中で生きているのだから、まったくカネが不要ということはないが、貯金の額はもちろん、多く稼ぐことにもさして興味はない。
 大金を手にすると、住まいはどこぞのタワマンか、数億円の豪邸か、みたいになるのが常道のようだけれど、高いところは苦手だし、広いところは掃除が面倒だ。

 もちろんカネの力を疎んじているわけでも軽んじているわけでもない。
 カネに力があることは疑いようのない事実だし、世の中の多くのことはカネで解決がつく。
 カネで買えないものは確かにあるが、そういうものに限って結構な面倒さがセットでついてくるような気もする。
 僕はそうした事実もひっくるめて、強い興味を持てないのだと思う。
 金を使うより頭を使う方が面白い。それだけのことだ。
 それに浪費も吝嗇も趣味じゃない。守勢に走って溜め込むのはみみっちいし、あるだけ使うのは馬鹿である。

 宝くじに当たっていきなりわけのわからない浪費に走るのと、大金を得ても使うことに興味がないというのは、僕から見れば同じぐらいの金銭感覚のおかしさだ。
 僕が「億越え」の小説家になるとして、いちばん興味があるのは、非常識な金銭感覚のズレを客観的に見て、自分はどう面白がるのだろうかという点に尽きる。
 たぶん、今の生活となんら変わらなくて、拍子抜けして終わるのだろう。でも、それはそれでまた面白い。
 せいぜい猫を飼えるところに引っ越して、猫に「小判」と名前をつけるくらいのものだろうかね。

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