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本日籠城につき取り留めのないことを

感染者数がうなぎ登りな上に変異株やら、ICUが埋まるやらで、心臓に機械がくっついている身としてはひたすら籠城に励むしかない。
コロナに斃れるくらいなら、計算の立つ間は働くこともせずに閉じこもっている方が上策というものだ。

籠城している間はひたすら書くことに費やせると思えば、これも一度止まった心臓が再び動き出したご褒美だと捉える方が健全。勝手な思い込みだろうが何だろうが、誰に迷惑をかけるわけでもないし。
社会への貢献はしばらく待ってもらうということで。

前にもnoteでも書いたかもしれないけれど、僕にとって創作というのは、どこかしら「蒐集」に似ているところがある。
過去の経験をそのまま書くわけではないのだが、過去のエピソードなりシチュエーションなりがきっかけやフックになって、まるっきり別のエピソードを思いつくことが多い。

ヘミングウェイは自分の経験抜きには書けなかったそうだ。
だとすればアフリカで狩猟したり、スペイン内戦の義勇軍に加わったのも、幾ばくかの不純な動機があったのかもしれない。
何れにしても外的な刺激を取り込んで、飲み込んで、反芻して、吐き出すのが一連の流れだとすれば、何より重要なのは「経験」だろうし、ヘミングウェイが自覚していたかどうかはともかくとして、不純な動機も仕方のないことだったんだろう。

写真は写すべき何かがないことには撮れないものだから、1を撮って3や5にするのが写真における創作の作業だと思っている。
一方、文芸は完全な0を1にするとまではいかないが、0.1ぐらいを1に変え、さらに3や5にしていけるものだ。「世界一の美女」とたった6文字で世界一の美女を登場させることができる。これは写真や映画ではできないワザだ。
そこに必要なのは想像力だろうし、世界でいちばんの美女を世界でいちばんの美女と想像させる技術だ。それがいちばん難しいのかもしれないけれど。

全然関係ない話だが、僕は「風と共に去りぬ」を先に小説で読んで、後から映画を見た。
マーガレット・ミッチェルの原作は、僕にはそれほど面白いものとは思えなかったけれど、10代の有り余る体力でどうにか読み通して、それから映画を見たら、読んでいる時に想像したスカーレット・オハラとヴィヴィアン・リーが演じるスカーレットのギャップが大きくて、途中で見るのをやめてしまったのだった。
僕の勝手なイメージでは、キャスティングの時に候補に上がっていたというスーザン・ヘイワードの方がしっくりくるんだけどなあ。
ちなみにクラーク・ゲーブルのレット・バトラーもおめめぱっちりすぎて、こちらはギャップどころか気持ち悪かった(笑)。

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