見出し画像

それでも摂食障害は母子関係の問題と思っていた

「磯野さんの読書会?参加するっきゃないでしょ」


『なぜふつうに食べられないのか』の読書会が終了した。

磯野真穂さんが著書の読書会はこの本で3冊目。著者ご自身が開催した『ダイエット幻想』の読書会が終了した後、他の参加者が開いてくれた自主読書会で2冊を語り合った。

磯野さんを知ったのは、2020年。医療情報や科学情報を手探りで探していたとき、医療を違う側面から見ておられる磯野さんのことを知った。そして『なぜふつうに食べられないのか』は磯野さんの本で一番最初に買った本だった。

その磯野さんの想いに触れてみたいと願っていたところ、2021年の1月からスタートするダイエット幻想読書会の存在を知って申し込んだ。

親のせいなのかという葛藤

言葉はとても悪いが、軽い気持ちで参加した。でも後になって思い返すと、いくつかの葛藤を公私共に抱えながら参加していた。その後続いた自主的な読書会は、葛藤を生きる覚悟に転換してくれた場所になっていた。

自分が知らぬ間に身につけた価値観を、仕事を通じて一つずつふるいにかけている。子どもの体調不良やトラブルは、決して親のせいではないと確信していた。はずだった。

ところが、『なぜふつうに食べられないか』を読むと、その確信が揺らいだ。本には磯野さんが取材された摂食障害の当事者さんたちが出てくる。その体験談を読んだら、「子どものトラブルは親のせいでは?」が再び意識に上るようになった。

原因探しの旅に出る

この本で磯野さんに一つ聞いてみたいのは、磯野さんが膨大なインタビュー資料をまとめる際に意識した点だ。磯野さんは偏りを減らしたのか、それとも何かに焦点を当てたのか。

本は磯野さんの博士論文を基にしているそうだが、まるで推理小説のようだった。読者が原因探しの旅に出て、そこで疑問にぶつかり新たな視点を獲得していくような展開だった。

第一部では当事者さんが4人登場する。そのストーリーを読むほどに、私は家族関係の問題点が記憶に残った。実際は、バイト先や病院での体験なども広く語られている。食べものの種類や食べ方などの情報もある。過食嘔吐のくだりは、身体が絶対にしんどいはずなのにそれをやめられないことに驚き理解に苦しんだ。

だけど私は親子の人間関係に摂食障害の根底にある原因を見つけ出そうとし、そして「やっぱりね」と自分の仮説を正当化した。

心の病は私たちを安心させる。近くにいる「少しおかしなあの人」が心の病だとわかった瞬間に、私たちは、その人について少しわかった気になるからだ。

なぜふつうに食べられないのか 〜はじめに

私の日常は慌ただしい。頭に浮かんだ不安はタスクになる。壮絶なストーリーに心が持っていかれないように、タスクを減らして安心したかった。そのために仮説が必要だったのだと思う。

この本はそうはさせてくれない。仮説の作り方が本当に正しいのか?を自分で問うようになった。

そもそも摂食障害は心の病なのか。身体の病なのか。

本ではそれぞれに原因を探す思考を「本質論」と「生体論」と分けて検証している。そして分けたそれらが抱えている問題点や現在の医療現場での試みも知ることができる。

大量の研究がなされ、治療技法も一定の到達点に達したにも関わらず、患者数が減ったわけでも、直す方法が確立されているわけでもない

〜序章

読み進めるにつれて混乱が生じ始めた。摂食障害の原因を何か一つでは語りきれないのではないか?と。その混乱を待ってましたと言わんばかりに、本を読むと次の視点が提案される。

特に刺激を受けたのは文化人類学の視点だった。

私たちは生まれたときから何が食べ物で、何がそうでないかを知っているわけではなく、この区分は他者から繰り返し教えられることでやっと身につく。海外旅行に行くと何を食べたらよいかわからなくなるのは、食べ物の選択肢についての本能が働かなくなったからではなく、選択に関する自らの背景と、渡航先の人々のそれがずれているからである

〜終章

この言葉にとても共感した。脳は不安と過度な思考を嫌がる傾向がある(と思っている)。特定の情報にふれて、その枠の中で生き方を悩んでいる方が楽なのだ。他者との関係性や社会の価値観を要素に入れ込むことは、事態をとても複雑に見せてしまう。

この視座こそが、様々な生きづらさを捉えるときに欠かせない気がした。

構造の複雑さを理解することは、一見遠回りかもしれない。だけど、何か一つに原因があると思うのは苦しい。文化や社会、時代、環境の影響や制約を受けて私たちは生きている。その中で生じた苦しみは、同じ要素で分解して考える方が自然だと思えた。

意識を覆したのは、読書会の会話だった

さて面白いもので、そこまで読み込んでもまだ「そうは言っても母子の問題でしょ」が拭えなかった。理性と感性とのすり合わせが不十分というか、理屈としてはわかっているのに、心がまだ納得していなかった。

それを緩めてくれたのが、2021年の1月から始まった読書会とその後の自主読書会だった。

ダイエット幻想の読書会は、様々な立場の方が参加していた。当事者の方や保護者の方もいて、その悩みや現状を聞かせていただいたことは大変貴重な時間だった。

でもそれだけではなかった。

他の読書会に参加したことがないので比較ができないのだけど、磯野さんの読書会は絶対に変だ。終盤は本とは全く無関係な話がチャットに溢れた。それはまるで、クラスのHRで学園祭のメニューを決めながら、消しゴムを投げ合っているような雰囲気だった(私は好きです)。

自主的な読書会もそうで、股関節のストレッチについてとか、裁判の話とかもするし、私もカールうすあじについて熱く語った。磯野さんが時々来られた時も、著者をミュートにさせて参加者が語った

本編に無関係な話題が、すごく重要だった。私個人に限って言えば、くだらない話を聞いてくれて笑い合うことで、心の奥にある葛藤を人に聞いてもらいたいと思うようになった。失敗や後悔、悲しみなど、ふだんは人前で出しにくい言葉を出せた。そして参加者はそれらを、真剣に聞いてくれた。

私も他の方の経験や言葉に耳を傾ける。

その工程を繰り返したことで、自分が変化していった。摂食障害に限らず、人が抱える悩みの根っこを原因を探すことよりも、それぞれの心の奥を覗くことが救いになるような気がした。理屈と心が以前よりも近くなって、生きやすくなった。

読書会が家庭にもたらした影響

ダイエット幻想の読書会が始まった時、受験生の母だった。思春期の子どもと何度も真正面からぶつかっていた。

特に上の子の子育てでは、罪悪感と悲しみや葛藤の連続だった。自分の体調が不安定で、子どもの要求に応える自信がないこと、私自身が何かわからない生きづらさを抱えていたことでいつも緊張していた。

トラブルが起きない子育て=母としての成功とすら感じていた。逆に言うと「子どもに生じた体調や心の不安定さは私のせい」と言われることをとても恐れていた。

いやもう、、、子育ては修行だ。2021年春もいろんなことがあった。でも、以前のように子どもを責めたり、自分を責めたりせずに乗り越えた。

「子どものトラブルは親のせい」と思わなくなったことで、私はトラブルの解決者になれる自信が少しずつついていった。その変化は、以前から起きていたのだろう。だけど、読書会での交流が勇気をくれたことは間違いない。

私に限らずだろうが、常識の刷り込みは知らぬ間に起きている。一度「そんなもんか」と納得すると簡単には覆らない。本を読んで答えを知ったところで、それが生き方を変えるまでは到達しにくい。

視点・時間・対話。

知らぬ間に身につけた常識が自分を苦しめていることには、これからも何度も気づくと思う。その時に本と読書会の時間で起きた変化を思い出せたら嬉しい。それくらい勇気をもらった。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?