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【いろいろな見方】について

昨日投稿した【写真史と美術史を分けないで考える】と言う記事に対し、facebookのコメントから、なかなかに有用な問題提起をしていただいたので、それついて考えてみます。

まずそのコメントを引用させていただきますが、

何をどのように解釈されようと、捉えようと自由かと思いますが、写真とは…カメラ・オブスクラとは…解釈を自由につなぎ合わせて論じようとすることに破綻を感じます。

と言うことで、全く正しいことを仰られており、辞書的な意味でも「写真」と「絵画」は全く定義が異なる別物なのです。

ヨーロッパの画家がカメラオブスキュラを利用して「絵画」を描いていたのは事実だとしても、それを「手描き写真」と称して「写真」と同列に語ることは、非論理的な強弁に過ぎないとも言えます。

アングルによる絵画(1835年)と、ナダールによる写真(1864年)

実際、例えば「写真コンテスト」に「手描き写真」として油彩画を描いて応募するのは趣旨に反しているし、「写真展」に「手描き写真」として油彩画を展示するのも趣旨から外れているし、「写真専門学校」で「手描き写真」として油彩画ばかり描かせていたら、学生はなんのために入学したのか分からなくなってしまいます。

ですから私は常識的な意味で「写真」と「絵画」、あるいは「写真史」と「美術史」を厳然と区別すること自体に、意を唱えているわけではないのです。

しかし私としては、もう一つ別の見方もありますよ、という提示をしたいのです。

例えばその昔、人間は他の動物とは全く別の存在だと信じられていました。

"ふつう"のサルから見るヒトの起源と進化より引用

ところが科学が進歩することによって、人間は猿から進化した生物で、その意味で人間と猿は全く別の存在ではなく、シームレスに繋がっていることが明らかになったのです。

しかしだからと言って、猿を人間と「同じ存在」として認識し、何もかも人間並にすることは明らかに間違っています。

ヒトとサルの関係について「新しい見方」を提唱したチャールズ・ダーウィン

ですから私も「写真」と「絵画」の明確な違いを尊重しながらも、その上でダーウィンのような「新しい別の見方」を提示したいと思っているのです。

すなわち「文化的進化論」の立場で見ると、人間が猿から進化したように、「写真」は「ヨーロッパ写実絵画」から進化して、その意味でシームレスに繋がっているのです。

それと同時に「ヨーロッパ写実絵画」から進化して「現代アート」になったわけですから、「写真=現代アート」と言う等式も成り立ち、両者の歴史は(生物史がそうであるように)一緒くたに考えられるべきなのです。

しかし一方では「写真」と「絵画」は厳然と区別されるべきですし、私が提示する「新しい別の見方」に対しても「理論が破綻している」と感じられるのであれば、それは至極ごもっともで聡明な判断だと思うのです。