【いろいろな見方】について
昨日投稿した【写真史と美術史を分けないで考える】と言う記事に対し、facebookのコメントから、なかなかに有用な問題提起をしていただいたので、それついて考えてみます。
まずそのコメントを引用させていただきますが、
と言うことで、全く正しいことを仰られており、辞書的な意味でも「写真」と「絵画」は全く定義が異なる別物なのです。
ヨーロッパの画家がカメラオブスキュラを利用して「絵画」を描いていたのは事実だとしても、それを「手描き写真」と称して「写真」と同列に語ることは、非論理的な強弁に過ぎないとも言えます。
実際、例えば「写真コンテスト」に「手描き写真」として油彩画を描いて応募するのは趣旨に反しているし、「写真展」に「手描き写真」として油彩画を展示するのも趣旨から外れているし、「写真専門学校」で「手描き写真」として油彩画ばかり描かせていたら、学生はなんのために入学したのか分からなくなってしまいます。
ですから私は常識的な意味で「写真」と「絵画」、あるいは「写真史」と「美術史」を厳然と区別すること自体に、意を唱えているわけではないのです。
しかし私としては、もう一つ別の見方もありますよ、という提示をしたいのです。
例えばその昔、人間は他の動物とは全く別の存在だと信じられていました。
ところが科学が進歩することによって、人間は猿から進化した生物で、その意味で人間と猿は全く別の存在ではなく、シームレスに繋がっていることが明らかになったのです。
しかしだからと言って、猿を人間と「同じ存在」として認識し、何もかも人間並にすることは明らかに間違っています。
ですから私も「写真」と「絵画」の明確な違いを尊重しながらも、その上でダーウィンのような「新しい別の見方」を提示したいと思っているのです。
すなわち「文化的進化論」の立場で見ると、人間が猿から進化したように、「写真」は「ヨーロッパ写実絵画」から進化して、その意味でシームレスに繋がっているのです。
それと同時に「ヨーロッパ写実絵画」から進化して「現代アート」になったわけですから、「写真=現代アート」と言う等式も成り立ち、両者の歴史は(生物史がそうであるように)一緒くたに考えられるべきなのです。
しかし一方では「写真」と「絵画」は厳然と区別されるべきですし、私が提示する「新しい別の見方」に対しても「理論が破綻している」と感じられるのであれば、それは至極ごもっともで聡明な判断だと思うのです。