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アルベルティの『絵画論』から分かる「現代アートとは何か?

現代アートとは何か?というのはなかなか難しい問題で、いろんな人がそれぞれ定義していますが、自分としては今ひとつ納得できるものがなく、ハッキリ分からないままでいました。

ところが最近、アルベルティという初期ルネサンスの人が書いた『絵画論』(1436年)という本をたまたま読んだところ、期せずしてそこに「現代アートの本質」がズバリ示されていて、私としては非常に納得できてしまったのです。

いやもちろん普通に考えて、600年も前に書かれたこの本に「現代アート」についての記述があるわけがありません。

アルベルティの『絵画論』はヨーロッパ古典絵画の基礎を築いたといわれる名著で、後の時代の画家達に多大な影響を与え続けてきたのです。

ですからそこには科学的精神に基づく厳密な絵画理論と共に、「絵画とはこうあるべき」というさまざまな「規範」が記されているのです。

ところが、アルベルティが示したこの「規範」をひっくり返すと、「現代アートとは何か?」を実に見事に言い当てていることに気づき、ビックリしてしまったのです。

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アルベルティの肖像画

レオン・バッティスタ・アルベルティ(1404〜1472年)は、初期ルネサンスにおいて「万能人」と呼ばれた人で、絵画はもちろん彫刻、建築、演劇、詩作、数学、科学、古典学、法学、などさまざまな分野に精通し、同じく「万能人」と呼ばれたレオナルド・ダ・ヴィンチの大先輩(レオナルドより48歳上)みたいな人でした。

アルベルティの建築(『絵画論』より)

アルベルティの作品はいくつかの建築は残されているものの、残念ながら絵画作品は現存しません。

アルベルティの記述を元にした遠近画法の作図(『絵画論』より)

しかしその『絵画論』だけは生き残り、ヨーロッパ絵画の基礎を成す教科書として読み継がれ、例えば線遠近画法による作図や、骨格を意識した人物画、石膏デッサンの意義など、現代の美大受験でもお馴染みの方法論がほとんど網羅され、その意味で現代にまで影響を与えているのです。

そしてこの『絵画論』において「絵画」は特別の意味を持つのですが、アルベルティはあらゆる種類の芸術の中で「絵画」こそが至高であると定義付けたのです。

なぜなら例えば彫刻家が立体を立体に置き換えるだけなのに対し、画家は立体を平面に変換しなければならず、難易度が格段に高いのです。

しかも人物や動植物、建築から遠方の山並みまであらゆる事物を正確に描写し、しかもそれらを仮想的な立体空間に適切な距離を取って配置しなければならないのです。

ですから豊富な知識と高度な知性を持っていなければ、本当の意味での「絵画」を描くことができないとしたのです。

そしてアルベルティは絵画の中でも「歴史画」を最上位としているのですが、これは一枚の絵の中に歴史性はもちろん、物語としての創造性や構成の見事さ、さまざまなモチーフのリアルな描き分けなど、あらゆる要素がギュッと圧縮された文字通りの「総合芸術」なのが理由です。

つまり産業革命以前の世界で、人間が生み出し得る最高度の人工物が「絵画」であり「歴史画」であったのです。

アルベルティの理想を最も忠実に実行したと言える
レオナルド・ダ・ヴィンチによる『岩窟の聖母』(1483 - 1486年)

ですからアルベルティが理想とする絵画は人類にとって最高度の知性と精神力を注ぎ込んで描かれなければならず、その理想を最も忠実に実行したのがレオナルド・ダ・ヴィンチだったと言えるのです。

実際、レオナルドが残した膨大な「手記」の中にも、いかに絵画が他の芸術より優れているかについて力説した箇所があるのですが、それは明らかにアルベルティの影響だと言えるのです。

それ以来、ヨーロッパの画家たちは、時代ごとに多少のスタイルの変化はあったにせよ、基本的にはアルベルティの教えに沿って絵画を描き続けたのです。

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ところがまさに産業革命の時代になって、様相は一変しました。

1839年にフランスで世界初の「実用写真術」が発表されたのです。

これが何を意味するかと言えば、アルベルティが理想し、「神の技」として称賛した最高度の画家の技術が、産業革命のテクノロジーに置き換わってしまったのです。

もちろん黎明期の「写真」は撮影にも現像にも高度な技術が必要でしたが、絵画を描くよりは格段に簡単で早く、「絵画」以上にリアルな「写真」が誰でも撮れてしまうのです。

そうなると「最高度の人工物」だった絵画の価値は相対化され、画家のプライドやアイデンティティも失われてしまいます。

そんな中、非常に「アクロバチックな方法」でその問題を解決しようとしたのがエドゥアール・マネだったのです。

つまりマネはアルベルティが『絵画論』で説いたことの「真逆」をすることによって、「絵画」を新しいものに生まれ変わらせようとしたのです。

アル中の男をラフなタッチで描いたマネの『アブサンを飲む男』
現実の女性を平坦な色面として描いたマネの『オランピア』


例えばマネは「歴史画」の英雄の代わりに「安酒を飲むアル中の男」を描き、ギリシア神話の女神の代わりに「現実の裸体の女性」を描いたのです。

描き方にしてもアルベルティが示した「正確で精密な描写」に反して下描きのような荒いタッチのまま仕上げてしまいました。

またアルベルティが「黒を他の色に混ぜると影を表現することができ、それによって量感を描くことができる」と述べていたのを無視し、固有色をベッタリ塗って、人物を平坦な色の塊として描いたのです。

しかし何よりも肝心なのは、マネがアルベルティの『絵画論』を画家に対する「拘束」そして「抑圧」と解釈し、その全ての拘束から逃れる「自由」こそが、産業革命以降の、そしてフランス革命以降の新しい「絵画」のあり方であることを見抜いた点なのです。

確かにルネサンス以降のヨーロッパ絵画は、描き方も描く題材もガチガチに決められて固定され、画家の崇高な理念と精神の持ち方まで決められて、その意味で「自由」が全くない状態だったと言えるのです。

そしてその元凶がアルベルティの『絵画論』にあるのなら、まさにその「正反対」を実行すれば、新しく自由な時代にふさわしい、新しく自由な絵画を描くことができるようになるのです。

とそのように、アルベルティの『絵画論』に反発し、その拘束・抑圧から逃れて自由を求めることで「近代絵画」が始まったと理解すると、その延長上にある「現代アートとは何か?」もだいぶハッキリしてくるように思えるのです。

ここで面白いのは、アルベルティが画家への戒めとして、「自分の才能を過信して、ろくに勉強もせず我流で描こうとする画家は悪い癖が付いてしまい、矯正ができなくなってしまう」というように述べている点です。

ここで言われる「悪い癖」は、現代流に翻訳すれば「個性」と言うことになります。

つまりアルベルティは人間の「個性」否定し、それを「悪い癖」と表現したのです。

なぜならアルベルティにとっての絵画は「理想」を追求しそれを描くものであり、そのために画家の人間としての「個性」はノイズ=悪い癖でしかなかったのです。

しかし「個性」を何よりも重んじる現代アートにおいては、アーティストが自分自身の才能を信じるのは当たり前だし、誰の影響も受けず自分の個性を発揮することは推奨されるべきことなのです。

そのように見ると、現代アートの在り方は、アルベルティの『絵画論』の正反対であり「倒立」の関係にあるのです。

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もちろんそれは社会構造と連動していて、近代以前の世界は人々の身分が固定され、王様の子供が王様になり、農民の子供が農民になり、上流階級の子供でなければ画家にはなれなかったのです。

ですからフランス革命以降、産業革命のテクノロジーを背景に自由で平等な社会が実現してくると、それに相応しいアートの在り方が求められるようになってきたのです。

そして、その究極のあり方が現代の「現代アート」なのですが、現代アートが絵画や彫刻のみならず、写真、映像、インスタレーション、パフォーマンス、コンセプト、などなどその表現方法が多岐に渡っているのは、アーティストがそれぞれの「個性」に基づいて、それぞれの「自由」を求めた結果なのです。

現代アートに対し「訳がわからない」と言われるのはそれだけの「自由」を実現した結果だと言えるし、一方で現代アートが多くの人々の共感を得るのもそれだけの「自由」を表現しているからだと言えるのです。

ですから「現代アートとは何か?」と言う問いに対し、「人間の自由の可能性の追求」と答えると、私としてはかなりしっくりくるのです。

そしてここに「現代アート」の難しさがあるのですが、サルトルが「人間は自由の刑に処せられている」と述べたように、人間は「何でも自由にしていいよ」と言われると、何をしていいかが分からなくなってしまうものなのです。

一方、近代以前の画家は自由がないかわりに何をどんな風に描くのかが決まってましたから、それについて悩む必要はなく、ただ決められた理想に向かって一心不乱に修行して、勤勉に描き続ければ良かったのです。

石膏デッサンはアルベルティからの伝統として、
現代の美大受験教育にも受け継がれている。

ここで自分の経験を述べますが、私は今でこそ写真家を名乗っておりますが、美大の受験では「石膏デッサン」を選択して、そのために一浪した受験予備校で1年間みっちり勉強して訓練したのです。

実はアルベルティも画家の訓練として彫刻のデッサンを推奨しており、それが美大受験にまで受け継がれていたのですが、そのようにして私も写実的な絵が描けるようになったのです。

ところが美大に入っていざ「自分の作品」を描く段になると、何をどう描けばいいのか分からず全く途方に暮れてしまい、自分の才能の無さにとことん絶望してしまったのです。

その後私は写真表現の中に「自分らしさ」を見出し、アーティストになることができたのです。

しかしそれ以前に私はアカデミックなデッサンをマスターした満足感と、「自由」に対する絶望感を同時に味わい、今から考えるとそれは自分にとってなかなか貴重な体験なのでした。

もしかすると美大出身の現代アート作家の多くが似たような経験をされたかもしれませんが、いかにアカデミックなデッサンの勉強をしようとも「現代アート」の前ではほとんど役立に立たないのです。

ですから最近の美大受験でもデッサンは軽視され、美大を出ていなくとも自由な個性を発揮してデビューするアーティストもたくさんおられます。

さらに実用的なAIアートも出現し、フラットで自由な選択肢で溢れる状況はますます広がり、現代アートもより「現代アート」になって行くのが現代の、そして未来を含めたアートの在り方ではないかと思うのです。