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文字に触れるということ

仕事をしていると小学生の字ですか、という人がたまに現れる。

 字が綺麗汚いの定義付け
他人が見た時に理解出来るかどうか
とめはねはらい等を無視していても綺麗だと感じる字は確かにある(綺麗と感じるかは個人差あり)
という事は一般的に読みやすいかどうかが伝わるには1番大事なのである。

確認要項
字は書けば綺麗になるか?

左脳が発達している人ほど字が汚いという話があって、
東大生であろうと読みづらい文字の人は読みづらいのである
あれだけノートを取っている学生がである。

という事は障害でない限りは、書き取りは一定以上意味を成さないのではないか、という疑念がある。

文字に関する障害というと、ディスレクシアと呼ばれるもので、
識字障害、書字障害、読字障害を主に言うものだと記憶している。
どこからが障害かと言うのを図るにはきっと教養レベルがあるかないかという事が重要だと思っていて、
100年前の日本人等はそもそも教育を受けていないから新聞が読めない、もっと前だと履歴書が書けないから代書屋さんに書いてもらうなんて事もあったぐらいで(まあ今で言う退職届書く仕事と似ているが)、そういう人達はそもそも教育がないので書けるわけがないのである。
そうじゃなく、教育を受けているのに書けないことを障害と言うはずで、
ただディスレクシアと字が汚い綺麗の関係性はきっと少し関連はありつつ別のアプローチが必要なようにおもう。

文字の起源は象形文字だと思っているんですが、
形を捉えて、字というものにした時に人に伝わる、というギミックなわけで、
これにはふたつの能力が要求されるのだと思います。
ひとつはそのまま特徴や形を認識する能力
もうひとつは認識したものを書き出す能力
現代でよく言うインプットアウトプットというやつです。
これがスムーズな人ほど字が綺麗なのだろう、ということ、
しかして現代は文字を創造する必要が無いのである。
先の話に戻るが、現代ほど文字に触れる機会が多い時代はないのだと思う。
電車に乗っている9割がスマホの画面を見ているのである。
そこには動画もあるだろう
ゲームもしているだろう
音楽を聴いているかもしれない

全てのコンテンツに文字が付随しているのである。
産まれてから今まで一日たりとも文字を見なかった日はないはずです。
なのに僕ら現代人は書くという事から離れつつありますね。
ディスレクシアとは別に、
読字はものすごく発達しているが、書字になると著しく下手になるんです。
アナログで書くという機会が減ったからでしょう。

出来るだけ実際に書く、という事をしたいと思っている今日この頃。
革の手帳が欲しいなという話でした。
ああ、そうだ
noteをしていますが、note民の本や文学や文字が特別で尊いものだよね、という思想めいたものは僕はあまり好きじゃないです。
天邪鬼なので。
全ての表現はツールでしかなく、中身の方が大事だと思っています。
人種より中身、という考え方と似ているかもしれません。
しかし人種がどういうものか考える事は大事だと思います。
そういうお話でした。

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