見出し画像

表現する、ということ。

人類総配信者(望む望まざるに関わらず)と言っても過言では無いと思っていて、
(配信の定義はライブ配信、ライバーというよりもっと広義だと思う。表現全般と言っていいと感じている。)
自分から発信しなくても(自分を含む)誰かの記録がアップロードされて世界中に拡散されて、
というようなことは日常に溢れていて。
例えば街中のライブカメラにそれとは知らず自分が映り込んでいて未来永劫残る可能性は、ある。
ただ情報量が多すぎて見つけられないだけで。

この多すぎる、という事をずっと考えていて、
例えば表現何でもいいんですけど、
絵でも文章でも音楽でも演劇でも。
10年前には、というか有史以来考えられないぐらいの情報量が日々人類に集積していて、
その中で価値のあるものを自分で選択する時代になったんだと思うんです。
昔なら専門の何某かに選択されたものを好むしかなかったわけで。

この変化は果たしていい事なんでしょうか
ずっとそれを考えている。
もちろん昔なら与えられなかった可能性が芽吹くこともあるでしょう。
しかし逆に、箸にも棒にもかからない作品がbotのようにAI的に生み出され続けている。
と、思うんです。
自分にとっては価値がなくても他人にとっては価値がある、それでいい、同調圧力の存在しない世界になりました。
人はそれを多様性と呼ぶそうです。

多様性は福音でしょうか。
僕は飽和を感じます。

圧倒的な才能に涙したことがありますか?
こんなものを作りたいと夢見た事がありますか?
僕はあります。

今の時代は基準をどこに求めるんだろう。
他人の基準は多様性があるから当てにならない。
なら自分にしか根拠がない。
それは、圧倒的に閉じている気がする。
その不可思議さが今の時代の表現にはあるんだと思います。

個性が必要なんです。
でも多様性を認めるということは、個性なんて、あってもなくてもいい、同じなんだよ、と言う事と同義だと言うのは、暴論でしょうか。

 淘汰され尽くして生き残ったものだけを、僕に与えてくれ、と思うのはもうこのSNS時代には到底無理なんでしょうね。

同調圧力を僕にかけてくれ。
それだけが共有の意味がある。

人に当たり前にある死や美しさを、 詩や文で紡いでいます。 サポートをしていただければ製作の糧になります。 是非よろしくお願いいたしますm(__)m