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しあわせという病

【人間は幸福になるために生まれた訳では無い】

ロマン・ロランのこの言葉は、僕のこれまで生きてきた人生の指針の前提条件を根底からやっつけたのだった。
人間は幸せになるために、当たり前にそうなるように、その場所へ向かって存在しているのだと思っていた。
Tedだったと思うがある経営者が講演で人間の不快指数の話をしていて、生まれた瞬間、母体から外に出た時に人は人生で経験する最大の不快を感じる、という事を言っていた。
 生まれた瞬間が不快というのも皮肉だが、個体として分離した瞬間、外界に晒され生物としての危機意識に苛まれるのだ。

一人である、ということの不快

生物学的な観点から種の存続、生に(あるいは性に)向かって人は生きているのだろうと思っていた。
無意識下で刷り込まれた【おひとり様】でいることの罪悪感であるとか社会への対立的構造を避けようとする意識はあくまで後付けで植え付けられたもので生物の習性として存続するために人は寄り添って生きているのだろうと。

なんのために。

IKEAの家具を揃えるために
ハイブランドの服やバッグや靴で充足するために
たまの外食で自分を慰め
どこかに行ったという報告をSNSや職場の人に報告し優越感に浸るために
お気に入りの推しのLIVEにいけること
限定ものの時計を手に入れること
スタバでフラペチーノを飲むこと

幸せとは、対比がある事なのだ

大量消費社会の物欲主義的考えは一旦置いておいたとしても、
僕らはコモディティ(一般)化されていない特別なもの(だと思っている)事を体験する事が幸せだと感じるのである。
特別感。

職場に自閉症気味のアラサーの男性がいる。
僕は医者では無いので勝手にそう思っているだけである、が、彼曰く
「旅行に興味無いですね。強いて言えば美味しいものが食べれたら良いです」
ファッションにもキャリアアップにも異性にも興味はなく別の職場の主婦からすれば「〇〇君はなんのために生きてるんやろうなあ、生きてて楽しいんか?」(関西弁)との事である。

そこでふと思う。
ある意味ロマン・ロランのあの言葉が当てはまる生き方であるまいか、と。
 彼の生き方や言動が多少病気質的に映る事はさておき、
幸せの価値観を外部に求めない生き方
もっと言えば幸せである事を人生の前提条件としていない生き方、というのは、
もしかしてありなのやもしれぬ、と思うのです。
ある意味それはインディビジュアルな個人主義的思想なのかもしれないが。
よく人は、「それが彼、彼女にとっての幸せとは限らない」という話をする。
でもそれは前提として幸せであること、あろうとする事は当たり前という話し方なのだ。
それに対して「自分の幸せは自分で決める」、と続くのだが、これも幸せが前提条件だ。

あなたがいること

種の多様性とは幸せの基準を固定化しないことでしょう。
あなたの幸せは貴方で管理して、
私の幸せには入ってこないで
ただ貴方の尊厳も考え方も性別ですら尊重するわ
という事なのでしょう
これは寄り添うことと個人主義と一体どっちに傾いた生き方なんでしょうか

本当に多様化とは向き合った上で受け入れた事ですか

最初から他人をどうでもいい、とした上で突き放した思想になりつつあるのではないか、とも思うのです。

 コロナから回復した時、
舌の上に乗った食材の味を噛み締め
ああ、幸せだなあ
美味しいなあ、と思ったものです。

僕らは幸せを対比的に考えた上で、その幸せを他人と比べることなく生きなければならなくなった。
そうでなければ生きづらい世の中だからです。
この矛盾を受け入れながら生きるのは、幸せが前提にあるからなのかもしれません。

 もしかすると人はもっと純粋な事のために生きていいのかもしれませんよ。
例えば農作業をして、野菜が上手く育った、
それだけでいいのかもしれない
根源的にはそういう事でいいのではないか、と思うのです。



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