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人間は「観測のためのツールである」という宇宙理論。

はじめに

春分の日以降
闇堕ちして自分に潜り
それから何冊も読書をした

noteを書き綴りたい
という欲求もなく
ただ本を読んでいた

これらの本を
すべて読み終えたとき
わたしの頭の中は
インプットが飽和状態になり

そこからコメダ珈琲に行き
落書き帳を取り出して
ひたすらアウトプットしてみた

まるで自動書記かのように
ひたすら流れるように
書き続けること3時間

それは宇宙理論と呼べるような
「ヨノコトワリ」だった

頭の中を整理しきれなくて
LINEオープンチャットを開設し
興味ある方々を募り
今日はzoomで座談会をした

そこで少しばかり
頭の中をアウトプットできて
ちょっと隙間ができたので

noteにまとまりないままでも
書き綴ってみようと思った次第

人間は観測するための装置?

すべては
観測結果の〈アラワレ〉である

というのが、いまの結論だ

既に端折りすぎて
意味不明な感じなのだが

わたしたちは
宇宙の一部として存在しており
『身体』という入れ物をつかって
地球を観測している

観測結果は
宇宙の拡大のために
利用されている

つまり生きてるだけで
宇宙貢献しているのだ

そして
観測結果を宇宙に送るんなら
別にわたしじゃなくても良くね?
なんて思うかもしれないけど

生きてるだけで
その義務が果たされている!
というか
生まれてきたこと=自分の役割なのだ!

地球の観測方法

観測の仕方はとても簡単
自分の五感で体験して
それに対して感情で反応すること
そして反応を行動で示すこと

たったこれだけのことだ

美味しいものを食べて
美味しいなぁって味わって
また箸を伸ばす

それだけのことが
どれほど重要か、って話だ

同一の観測値はひとつもない

わたしが
美味しいものを食べて
わー美味しい嬉しい!と喜び
満足して箸を置いたという出来事

すぐ隣で旦那さんが
同じものを食べて
同じように喜び
満足して箸を置いたとしても

その観測値は
まったく違うものなのだ

何故なら
わたしの座っている位置という座標軸
わたしが口に運び咀嚼した時間軸
美味しいという言葉の中に含まれている
言葉に言い尽くせない感情

それらは
同一の観測値とは言えないのだ

でも〈言語化〉というものを使うと
それは「美味しい」の括りになる
ただそれだけのこと

わたしの五感で観測した結果は
わたしにしかわからない
これだけは、何を差し置いても
絶対なのだ

長くなるので今日はこの辺で

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