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寂しい涙から、新たな決意を。


いつまでもこのことを書けないと、私はいつまでも泣いてしまう

だから勇気を持って書いてみようと思って、久方ぶりの1人静寂の朝、筆をとった

石徹白に通い始めた2007年当初からずっとお世話になってきたSさん。
神道のお家にお住まいで、その祭事をお家で繰り返し、信仰を大切にされてきた。
神社の祭りの前の掃除も一緒にやらせていただいた。

私は結婚したばかり。子供がいなくて、石徹白に通っていて、よく訪れた。明るくて、なんでも惜しみなく教えてくださる快活な少女がそのままおばあちゃんになったような人だった。

お話しすると元気をもらえる。
たわいもない話をして大笑いをする、そんな場の雰囲気が好きで、いつも彼女の元に足を運んでいたように思う。

ちょうど、私の母方の祖母と同い年。おじいさんのKさんも、ちょうど私の祖父と同い年。実のおじいちゃん、おばあちゃんのように優しく接してくださった。

より一層頻繁に足を運ぶようになったのは、「たつけ」を教えてもらうようになってからだ。

SさんとKさんは古いものを大切にする人で、古い道具を集めては、自宅の車庫に2階に、きちんと解説の木札をつけて展示されていた。「古いもの資料館」と名付けられ、時折訪れる来訪者に、石徹白のかつての暮らし、白山信仰の書面などを見せて説明をされていた。

今思えば、それは彼らにとって、とても楽しみなことだったようだ。私設の博物館のていで、なかなかここまでやられることは大変だと思うのだけど、とにかく、失われつつある石徹白のかつての文化を伝えていくために、お二人だからこそできた素晴らしい場であった。

私も、古物好き、かつ、石徹白の文化や風習に強く関心をもち、そこへは、友人が訪れると、必ず連れて行って、Sさんの説明を聞かせてもらっていた。

そんな古いもの資料館に何気なく掛けてあった「たつけ」を、私の師匠である森本喜久男さんが見つけて、「これは素晴らしいズボンだ。君はこれを作るべきだ」とご指南くださった。

それから、Sさんのお家へ通い、こたつで隣に座って、「はい、次はここ」「次はこれ」というように、たつけを縫っていったのだ。

裁断から、縫製まで、順番に一つ一つ。
いっぺんに説明を聞いても、全くわからないような作り方。
どうしてこんな複雑な作り方を、先人らは生み出すことができたのだろう、と私は終始疑問だったけど、Sさんは何も不思議もなく、順番にあたりまえに教えてくださった。

それがかつての彼女の暮らしのあたりまえだったのだろう。
何十年も作っていないと言いながら、全く何も躊躇もなく、次々と教えてくださった。

こうして完成した最初のたつけ。
なんて動きやすくて穿きやすい、素晴らしいズボン。

私は感激して、このたつけを今の暮らしに取り入れられるような形に少しずつアレンジしていって、今の商品がある。石徹白洋品店の全てのベースがここで作られたのだ。

それ以降、私はSさんのところに足繁く通った。
特に、長男が生まれてからは毎日のように。

今ほど移住者がいない。
長男の同級生も当時は1人だけだった。ママたちは働いていて、子育ての相談ができる人があまりいない中、私が訪れるのはSさんのお家だった。

子供が好きで、遊びに行くととても喜んでもらえた。
保育園に通い出してからも、4時のお迎えの後にお邪魔して、池の鯉に餌をやらせてもらった。
子育ての相談もさせてもらったし、服作りについてももっと色々教えてもらいたいと、ペンとノートを持ってお邪魔した。

夜泣きをする話をすると、
「昔はな、屋根の棟に向かって草履を蹴ったんじゃ。それを越えたら夜泣きがなくなるって言って」
と教えてくださった。
「それで、本当に夜泣きがなくなったの???」と聞くと
「そうじゃったかのぉ。忘れたがのぉ。笑」
と2人で笑った。

「盆踊りからの帰り、盆になると、後ろを向いたらいかんって言われて、帰りはあの辻で振り返らず走って帰った。ちょっと怖かった」

若い時の話も、嫁いでからの話も、最近の話も、おもしろおかしく話してくれるSさんが大好きで、惹きつけられるように、時間を作ってお邪魔した。いつも自然体で優しく迎えてくれた。

「聞き書き」も何度かさせてもらった。
耳の遠いKさんも、私の甲高い大声だったら聞こえるようで、昔のおかしな話から、彼が石徹白のためにやってきたいろんなことをたくさん教えてくださった。今思うと、あの時聞いておいて本当に良かった、貴重だったと思う。

私と子供たちは頻繁にお邪魔していたけど、毎年正月の3日には、夫も一緒に家族みんなで年始のご挨拶に伺っていて、恒例行事のようになっていた。

にしんずしと、肉漬けをホットプレートで焼いて、珍しくその日は皆で日本酒で乾杯して、おせちの残りをつつきながら、本当のおじいちゃん、おばあちゃんのお家にいるかのように子供達もみんなでくつろいだ。

Sさんが足が痛くてあまり外に出られなくなってからも、おじいさんの耳がより一層遠くなっても、変わらずに私はお邪魔した。ずっとしっかりされていたし、話ももっと聞きたかったから。

転機はコロナ。そして、Kさんが亡くなったことだったか・・・

コロナで高齢の方のお家に行くことが憚られ、頻繁に行っていたのに、全く行けなくなった。丸1年くらいは躊躇した。

そして、おじいさんが亡くなった。大往生だった。しかも、最後はお家で亡くなって、本当に幸せだったと思う。

ずっと2人で生きてこられたSさんが、Kさんを亡くして寂しくないわけがない。若い頃から土建業をされるKさんを支えて、一生懸命、共に汗水を流してきた大切な相手がいなくなってしまった。

大恋愛の末に、宗教が違う家に飛び込んだSさんは、とにかく精一杯、Kさんと生きたのだと思う。
後に「お舅さんが厳しかったから、Sさんは大変じゃったと思う」と集落の人から話を聞いたけど、そんなことは全く私は聞いていなくて、とにかく一生懸命精一杯楽しく働いた、と話してくれていた、とても前向きで愚痴をこぼさない人だった。

最後まで本当に仲良しで、私もあんなふうに夫婦で歳をとりたいなと思っていた。

Kさんが亡くなってから、Sさんはとても寂しそうだった。
そしてギリギリのところで、自分の命を保っているようにも見えた。
少しずつ物事がはっきりしなくなってきたようにも見えた。

「朝はこれ、昼はこれ、夜はこれってちゃんと決めて食べんとわからんようになるからね」
と言って、朝食べるパンを見せてくれて、私の四男にも分けてくれた。

毎日息子さんが通っているから安心、と言っていたけど、始終一緒にいたKさんがいなくなってから、確実に寂しさが増していたように感じた。

私はとても心配だったけど何もできない。

「リウマチで足が痛くて」と、なかなか思うように動けなくなった。
外にも出られず、畑もお嫁さんと息子さんがやられるようになった。

私はそれでも、しっかりといつものようにお話しされるSさんと対して、もうしばらくは、きっとあと5年くらいはこのままお年を召されるんだろうな、と思っていた。

いつもたつけを作るワークショップで参加者を連れてお邪魔していたけど、2023年の3月にはお邪魔してもまだ鍵がかかっていて、躊躇し始めた頃だった。何月何日の何時にお邪魔します、と大きく書いた紙を持ってお願いして「そりゃ、来とくれ来とくれ」と歓迎してくださったけど、流石に、鍵が閉まっていたら呼び出すわけにもいかない。

だんだんと、訪れるのを控えた方が良さそうだと感覚的に思った。

そして、4月19日から入院された。
肺の酸素が足りないということで、隣町の病院に。

お見舞いに行くと、最初は虚な感じがしたけど、話し出すといつものSさんだった。私の仕事のことはかねてから心配してくれていて、その日も「仕事はどうや?たつけは売れるのか?」と聞いてくれたり、子供たちのことを気遣ってくれた。

「もう明日には帰れるはず」と、石徹白に帰りたくて仕方ない感じだった。

この調子だったら、きっと近いうちに石徹白に戻られるんじゃないかなと感じた。

そしてそのすぐ後、8歳の次男が同じ病院に入院することになった。お腹が痛くて寝られなくて病院に行ったら、痛みが止まるまでしばらく入院するか・・・と。子育てしてきて子供が入院するなんて初めてのことで動揺したけど、とにかく痛みがなくならないと家でも寝られないし可哀想、と、次男も觀念して入院。

そしたらなんと、Sさんの病室と中庭の空間を挟んでお向かいで、Sさんの息子さんがお見舞いに来ると、手を振れるほどの距離だった。

3泊4日の入院中、私は他の子供達と毎日通って、Sさんのお見舞いにも行った。次男が入院したと言うと「そりゃ、かわいそうじゃったな。M(次男のこと)よりも先に戻っとるからな」とも言って、早く石徹白に帰りたい気持ちを持ち続けられていた。

次男の退院が決まって、最後のお見舞いの日、挨拶に行った。
「Mが良くなったから、先に退院しますね」と伝えた。
するとSさんは
「平野さんたちに石徹白は頼んだぞ」
と言った。

その後もぽつりぽつりと色々な話をしたけど、なんだか少し焦点があってないようなそんな眼差しを、私より遠いところに向けていたように感じた。

私は次男が退院してもまたお見舞いに来ようと思っていたけど、結局、その後2週間ほどでSさんの訃報を聞いた。

あのお見舞いが最後になるなんて思ってもいなかった。次男の入院は、私がSさんと最後に会えるように仕組まれたとても不思議な機会のように、後から感じた。深いご縁があったのだと、次男のお腹痛に感謝さえした。

Sさんにお世話になっていた移住者は他にもいて、その1人のKちゃんが訃報を一番に知らせてくれた。いつも寝てしまっている時間だったから、その日の夜には電話は取れなくて、朝、この時間に彼女から電話があるなんて、もしかして・・・と折り返したら、そのことだった。驚いた、声が出なかった、彼女もそんな雰囲気だった。

でも私はここしばらくのSさんの状況を見ていたから、現世のことを徐々に忘れていくように、少し透明感を帯びながら、違う世界に逝かれてしまったことに、寂しさを感じたものの、致し方ないことのように思った。

Kさんの元にいかれたんだ、と少し安心もした。だって1人で寂しかったんだから。1人でいたって面白くも楽しくもなかったんだから。Kさんが大好きだったんだから。

だけれど、私はとにかく寂しくて仕方なかった。

病院からご自宅に戻られたことを息子さんに伺って、亡骸になった彼女にご自宅に会いにいった。

ご親族の方が笑顔で迎えて下った。「よう来てくれた」と。

これからは、ここにきても彼女に会えないなんて。
あの家も、古いもの資料館も、神道の場も、鯉の池も、花を植えていた畑も、彼女がそこにいることで全てが華やいで全てがいつも彩りに溢れていたのに、急にモノクロの世界になってしまったように感じた。

涙が止まらなかった。
信じられなかった。
事実を受け止めるには時間がかかった。
実際にお会いしても。

夕方には四人の子供たちと夫と、皆でもう一度お邪魔した。

また、親族の方が、子供たちをさらに笑顔で迎えてくれた。

涙がまた止まらなかった。
悲しかった。
寂しかった。

そしたら、次男が声を出して泣いた。
その次に長男も泣いた。三男も夫も涙ぐんでいた。

2歳になったばかりの四男は親族の方に懐いて遊んでいて可愛らしかった。

ほとんど最後まで石徹白でしっかりとお一人で生活されて、こうして親族の方に見守られて、大好きなKさんの元にいかれたSさんは本当に幸せだったと思う。息子さんもとても頑張られたと思う。

だけど、寂しい気持ちは変わらなかった。

移住者の仲間で私がとても信頼を寄せているMは「私たちががんばらないかんですね」と言った。

夫は「Sさんが言ってたね。平野さんたちに石徹白を頼んだって」
と言った。

そうなんだ、私たちがやらなくちゃいけないんだ。
これまでは頼りにできる人たちが周りにいた。
私は改めて、私にとってのSさんの大きさを感じた。

いつでも教えてもらえる。
いつでも頼れる。

石徹白での生活で、一番の心の拠り所になっていたんだって改めて認識した。

だから、ぽっかりと大きな穴が空いてしまった私は不安定さを感じていた。

けれど、夫と、そしてMの言葉にハッとした。
彼らは冷静だった。

その日の夜、次の日、そしてお通夜の日、私はとにかく寂しくて泣いた。
涙が止まらない。子供たちのことで忙しくしていると忘れていくんだけど、ふとした瞬間に涙が出た。

でも、お葬式の日の朝、私の風景は明らかに変わった。

Sさんがいなくなっても
広がって青く澄んだ空は変わらなかった。
心地よく吹く風も変わらなかった。
石徹白を囲む山々の美しさも変わらなくて、
田んぼも畑も、木々も、飛ぶ鳥も、草も花も何一つ変わらなかった。

いつもと違ったのは、
この時期にしては、暑い日になった。
とても暑くて、しばらく滞って困っていた藍の発酵がよく進み、色が出る日になった。

そして、それ以上に違ったことがあった。

いつもと変わらない景色が目に映りながらも、私の心が変わった。
寂しさに打ちひしがれているだけではいけないと思った。
もう寂しくない。
私は、Sさんのようになりたいと思った。
Sさんのようになろうと思った。

翌日のお葬式。
涙はほとんど出なかった。

私は、決意のようなものを持っていた。

これから私ができることは、全てやろうと思った。
全てやれると思った。

Sさんが一生をかけて、ここで生きてきた、その姿を、私は真似て、私もここで命をまっとうしたい。

いつかまたSさんに会えるような気がしている。
そしたらいつものようにおもしろおかしい話をして一緒に大笑いできるんじゃないかって思う。

だから、その日が来るまで、私はこの石徹白で、おもしろおかしく生きていきたいって思うんだ。

Sさん、ありがとう。
Sさんがいなかったら、今の私はいない。

本当に感謝しています。
あなたに出会えて私は本当に幸せです。
これからも、これまで通り、いつも見守っていてね。


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