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茶道のこと

コロナですっかりニュージーランドでの滞在時間が長くなってしまったけれど、実は日本に帰国するたびに、茶道のお稽古に通っている。日本にいるのは年に3ヶ月ほどだから、季節稽古人としてだけれど、帰国の楽しみの大きなひとつだ。始めてたった2年でこちらに移住してしまったから、基礎もないまま永遠のビギナーなのだけど、続けている理由は(ほぼ)たったひとつだと思う。

それは師との出会い。

社中の先輩が「先生に怒られるために来ているようなものだから」というほど、師は厳しい。お稽古中はもちろんのこと、手土産やお礼の渡し方などのマナーや気遣い、精神的なこと、人生において大切なことをたくさん教わっている。 

「茶道は無形の財産」だという。「歩き方、座り方、物の見方、全てに茶道は通じてて、その人の内面や教養は常に滲み出ているものです」こんなこと言われたら自分の空っぽさが見抜かれてしまいそうで、青ざめるし、どきどきしてしまうけど、こんなことをさらっと言葉にしてくれる先生に強く惹かれるのだった。

趣味やお稽古というものが昔から続かなかった私が、唯一続いている理由ともなる、原体験ともいえるようなエピソードがある。

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「報告したいことがあるので、お稽古の前に少しお時間を頂けますか」と事前にお願いして時間を頂戴したときのことだった。

「やっぱり。結婚の報告だと思ったわ」と。

その日の茶花は、先生自身の結婚の際、出身地から東京まで苗を運んだという思い出の草花と、水引草(色が紅白で、水引に見えることからこの名前になっている)を事前にしたためてくださっていました。

じわじわと胸が一杯になった。「結婚」ということはお伝えしていなかったのに、なぜ分かったのだろう、と。こんな経験は初めてだった。

これを亭主としての心構えと言うのだろうか。去年古希を迎えた先生の、これまでの膨大な経験と試行錯誤を想った。この心のこもったおもてなしは、その時から人生における道標となり、節目があるごとに、思い出している。

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それからもう一つ。師に教わったことに「感じる」ことの大切さ、がある。

今年はじめ、初釜に連れて行っていただいたときのこと。

そこで、感想を聞かれて、私は言葉に詰まった。

内心、「華やかだった?こんな言葉適切なのだろうか?一年の始まりをお祝いしている様子で、心が明るくなる?え、ありきたりすぎる言葉しか思いつかない、まずい!(涙)」と焦り、先生に「まず、何を見るべきだったんでしょうか?」と尋ねたら、こんな答えが返ってきた。

「正解があるわけじゃかいんだから、自分の頭で考えなさい。そして、その年齢、その時の自分でしか感じれないことを大切にしなさい。何を感じているのかが1番大切よ。」 

質問に質問を重ねた上、ポイントなんて聞いちゃう自分に、穴があったら入りたい気持ちだった(涙)

けれど、それ以上に、必要な時に必要な言葉をくださる師。「生意気だと思われたらどうしよう」という考えが過り、口をつぐんでしまいがちな私の背中を押してくれる、とても大切な考え方となった。

その時の自分が感じていることが、本来は刹那的なもので、同じ経験をしたとしても、1年後、10年後は同じ感想を抱けるとは限らない。だから、その時感じることをアウトプットすることは、一瞬、恥ずかしかったり、ためらいがあるかもしれないけれど、大切にしたい。

よく言うけれど、やっぱり私はお茶を習いに行ってるというより先生に会いに行っているんだ、と実感した瞬間だった。茶道をはじめてから、心が動く経験が、お稽古中はもちろん、生活にも増えた気がする。

これからも、先生の背中を追っかけたい、と思うのだ。

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追記:先代表千家お家元が、世界中を茶杓と茶筅をもって旅したというお話がとても好き。それに倣って、私も旅行の時には欠かさず、野点セットを持ち歩いています。(下の写真は南仏のマントン)

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