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野球への「逃走」:日本未公開野球映画を観る(30)

Black Irish(2007)

※「日本未公開野球映画を観る」カテゴリーの作品については、基本的に結末まで紹介しています。ご了解のうえお読み下さい。

成長物語と野球

 問題を抱える家族の末っ子が、家族内外の軋轢や葛藤に苦しみながらなんとか野球に打ち込んで成長するストーリー。ボストン南部に住むアイルランド系の家庭が舞台。
 以前「家族再生への『延長戦』」というタイトルで紹介したExtra Innings(2019)と非常に近い作品である。このときは「問題を抱えた家族の歴史の物語に野球が重要な意味を持って関わる映画は他に思いつかない」と書いたが、本作が12年ほど前に作られていたわけだ。
 共通点としては、主人公は末っ子であること、父親が抑圧的できょうだいもそれぞれ問題を抱え、家族関係が緊張を強いるものであること、それでも父親による承認を求めていること、宗教的な厳しさ(本作ではカトリック)が足かせのひとつになっていること、家庭の外に主人公の理解者がいること、野球が解放や自由の象徴になっていること等々があり、野球という要素以外は若者の成長物語に定型的な設定かもしれない。
 違いもある。本作では父親も野球は好きで(若いときはプロをめざしていた)、主人公が野球をするのを止めてはいないこと(一緒にレッドソックス戦の中継を見る場面がある)、父親は抑圧的であるだけではなく病気(ガン)とアルコール依存、仕事の不調など弱さも見えること、きょうだい間にも軋轢があること(兄は非行に走っており、主人公を騙して盗みに引き込んだり、学校で屈辱的な目に遭わせたりする)、家族は経済的な問題も抱えていること、主人公の恋愛はほとんど描かれないことなどだが、いずれもディテールであり、基本的な構造は共通している。
 ただ、本作にはより多くの要素が盛り込まれているぶん、それぞれの人物や出来事、関係性がやや見えにくく消化不良感が残るし、カタルシスもほとんどない。現実はそれほど単純ではないのでリアルとも言えるが、Extra Inningsはもう少しシンプルでわかりやすく、感情移入もしやすかった。メロドラマっぽいとも言えるが、どちらがよいかは好みの問題だろう。

「野球への逃走」というジャンル?

 野球が家族をはじめとする桎梏からの解放や自由の象徴になっているのはExtra Inningsとの共通点であり、「野球への逃走」映画とでも名付けてひとつのジャンルを成していると言ってみたい気もする。
 しかしながら、本作での野球はそれだけではない。ややストレスフルな家族の場面より「早く野球が見たい」と思わせられて出てきた試合の場面で、相手の選手のラフプレー(意図的に当たりに行くスライディング)への報復として投手である主人公が打者にぶつけ、乱闘になるところがある。主人公のフラストレーションと、それを見ていた兄が出てきて相手を殴るのが主眼と思われ、きょうだい関係が多義的であることも示しているのだろうが、高校生の野球でこういう乱闘シーンは意外だった。アメリカでは現実にあることなのだろうか。

イメージとしての「ブラック・アイリッシュ」

 ボストンにはアイルランド系住民が多いため、レッドソックスは彼らの祝日であるセント・パトリック・デー(3月17日)にちなんだイベントを行ったり、アイルランドの色である緑のユニフォームを着用したりする。
 アメリカにおいてアイルランド系はもちろんマイノリティではないが、ヨーロッパからの移民の中では地位が高いとは言えず、カトリック信者が多いこともあり、文化的に主流でエスタブリッシュメントの「WASP(ホワイト、アングロサクソン、プロテスタント)」との違いが意識されることが少なくない。ボストンでもアイルランド系の多い南の方は荒っぽい気風があると言われ、本作はそうした風土に根ざしているようだ。
 タイトルにある「ブラック・アイリッシュ」とは、アイルランド系のステレオタイプである赤毛や薄い色の瞳を持たない、黒髪や黒い目のアイルランド人を意味する表現だが、主人公一家が特にそう見えるわけではない。この言葉自体が、アイルランド系の中の実体ある一部を指すというよりは「典型的でないアイルランド人」といったイメージを表しているようで、本作でもそうしたニュアンスで使われていると思われる。
 とはいえ、主人公は神父になるべくカトリックの学校に行っていたのが経済的理由で公立校に転校させられたり、妊娠した姉はやはりカトリック教会が運営する未婚の母のための施設に入れられたり(逃げ出すが)、一家にはカトリックをはじめアイルランドの文化の影響が色濃く、アイルランド系であることの意味はアンビバレントである。

 アイルランド系はアメリカの総人口の10%強を占め、当然野球選手もいくらでもいる。英語圏の中では特徴ある名前が多く、「アイリッシュ・ネーム」としてよく知られるMcやO'で始まるもの以外にもNolanとかRyanもそうだという。ノーラン・ライアンは姓名ともにアイリッシュというわけだが、ライアン・ノーランというサッカー選手もおり、検索すると混ざって出てくる。こちらはアイルランド本国の生まれで今はスペインのリーグにいるらしいが、ミドルネームはパトリックだそうで、どこまでもアイリッシュである。

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