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美しき「野球の島」:日本未公開野球映画を観る(39)

Ustica, gli anni del diamante(Ustica, the Diamond Years)(2017)

※「日本未公開野球映画を観る」カテゴリーの作品については、基本的に結末まで紹介しています。ご了解のうえお読み下さい。

地中海の野球の島

 意外な土地での野球のドキュメンタリーとして、前々回インドのマニプール州が舞台のThe Only Real Gameを紹介したが、本作もそうした一編。イタリア南部、シチリア島の沖80キロに浮かぶウスティカ島という小さな島の話だ。
 マニプールと違うのは、国としてのイタリアはプロリーグもあってヨーロッパでは野球がさかんな方で、この島だけが野球の「飛び地」ではないことと、人口わずか千人ほどの小島であることで、マニプールとはまた違った驚きがある。
 本作は今のところ確認できている唯一のイタリア(語)の野球映画である。

突然やって来た野球熱

 発端はアメリカ人やアメリカ軍ではない。1971年、当時イタリア野球連盟とヨーロッパ野球連盟の会長だったブルーノ・ベネットという人物が休暇でこの島を訪れた際、子どもたちが石を投げて水切りをして遊んでいるのを見てホテルの主人に野球を勧め、後日大量の用具とコーチを送ったことに始まる。
 これを使って島の子どもたちが野球を始め、数か月後にシチリアであった青少年のスポーツ大会に参加したところ、ルールもよく知らないのに最初の試合に勝ってしまう。翌年には全国大会で3位になり、以後島の人々は子どもも大人も、男も女も野球に夢中になっていく。野球場などもちろんなかったが、島中の街角や空き地や公園でボールを投げ、打ち、走るようになったのだ。

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 初めは女の子も同じチームでプレーしていたが、本土の大会で「男子に限る」というルールがあったためクレームがつき、やがて女子はソフトボールのチームを作った。キューバから毎年のように野球のコーチが来たり、ソフトボールはオーストラリアなど世界各国の選手が訪れてチームに加わり、どちらも全国レベルの強豪になっていった。
 こうして小さな島はイタリア野球の「聖地」のような存在になり、1997年には天然芝とスタンドと電光スコアボードを備えた球場もできた。ここに野球の試合ばかりか練習でも観客が集まるのは、イタリアではおよそ考えられないことだった。
 独特の楽しみ方もあった。「シーボール」というのがそれで、打者だけが岸壁に立って海から投げ上げられるボールを打ち、打ったら飛び込んでベースに見立てたブイを泳いで回るという島らしい遊びで、外から来たプレーヤーを驚かせ、楽しませた。

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 島の代表チームは男女ともに国内最高レベルの「セリエA」まで勝ち上がるとともに、ソフトボールの捕手クレリア・アイララは2000年シドニー・オリンピックの代表に選ばれて5位に入賞し、ウスティカの野球は世界的にも知られるようになった。
 しかし絶頂期の2001年、チームは全国リーグからの撤退を決める。理由はコストだった。ウスティカのチームが本土に試合に行くのも、他のチームがウスティカを訪れるのも多大な費用と時間がかかり、特に対戦相手には不評だった。コストに加えてセリエAでは球場に照明設備が必要ということもあり、ウスティカのホームゲームをローマで行うことが求められた。連盟や他チームも存続のための援助をすることはできなかった。
 野球は島民の誇りやアイデンティティになっていたが、わずかな観光業以外にこれといった産業もない人口千人の島にとって、強くなるにつれ増していく負担を負い続けるのは不可能、という判断に至ったのだ。ソフトボールは2005年までなんとか頑張ったが、以後ウスティカの野球は急速に衰退していった。

日本でたとえれば

 地中海の美しい小さな島で人々がこぞって野球やソフトボールに打ち込んでいるのは、野球ファンにとってはおとぎ話のように聞こえる。強豪だったし、野球を嫌いになったわけでもないのに、自ら止めてしまったのはとてももったいなく思う。
 しかし、ウスティカの野球を日本でたとえて考えてみると、少しは状況がわかるかもしれない。
 ウスティカに空港はなく、シチリア島から約80キロの海路を高速艇で90分(1日3便)、フェリーだと3時間(同1便)かかる。
 日本で似たような島を探してみよう。瀬戸内海など島が多い海域は除くと、例えば山口県萩市の沖45キロの日本海上に見島(みしま)という人口約800人の島がある。交通は萩から1日3便の船で70分と似ているし、面積は7.7平方キロで、8.2平方キロのウスティカと近い。
 この小さな離島でハンドボールがとてもさかんだと想像してみるのだ。イタリアの野球人口は数万人、日本のハンドボール人口は約13万人と言われるが、総人口は日本が2倍強なので、普及度はだいたい同じぐらいになる。
 そんな見島の人々が野球やサッカーではなくハンドボールに夢中だと聞けば、ハンドボールを愛好する人は心惹かれ、試合を組んで訪れるチームも出てくるだろう。ハンドボールが人気スポーツであるデンマークからもやって来るかもしれない。しかし、日本リーグのチームのひとつがここにあり、シーズン中に何度も船に揺られて遠征しなければならないとしたら、その体制を維持していくのは相当困難だろう。島の人々も負担に耐えかねるようになっても無理はない。どうしても続けたい選手は島を離れて本土のチームに入るかもしれない。
 本作はソフトボールのリーグ撤退後10年あまり経って撮影されたが、島の子どもたちに聞く場面では、お父さんやお母さんが野球をやっていたことは知っていても、このスポーツを実際に見たことはなく、何人でやるかも知らないと口々に話す。野球は30代以上の人しか知らない昔のスポーツになっているのだろう。球場も、航空写真を見るとホームベース付近の小さなスタンド(写真の左下)が野球場だった痕跡を残すだけで、サッカーのグラウンドになっているようだ。なんとも寂しいことだ。

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球場跡と思われるスポーツ施設(Google Mapsより)

なぜ野球は衰退したのか

 全国リーグから撤退しても島で野球とソフトボールを楽しむことはできたはずだが、なぜそうならなかったのだろうか。このあたりが語られる場面はなく、推測にとどまるが、こんなことだったかもしれない。
 ウスティカの人々にとって野球は、ゲームの楽しさもさることながら、それを通じて世界が広がったことが大きかったようだ。野球の大会で初めて島を出た人がたくさんおり、アメリカやキューバに行った選手もいる。同時に、野球のためにたくさんの人が島の外、それもイタリアのみならず文字通り世界中からやって来た(日本からはアマチュア野球のリーダーの山本英一郎氏が訪れたらしい)。その野球で認められることは、島の人たちにとって「世界が変わる」ような経験だったのではないか。
 しかし、21世紀に入ると世界が実際に小さくなり始めた。インターネットの普及などにより、世界を知るだけでなく直接関わることもはるかに容易になり、野球を通じてそれを行う必然性はなくなったのではないだろうか。
 今、子どもたちは他の地域の子と同様、野球よりサッカーを好んでいる。野球が持ち込まれる前、なぜこの島でサッカーに人気がなかったのかはわからないが、とにかく今や、島外の世界と同じものを好み、それについて行くことが普通にできるようになった。その結果、マイナースポーツに島のアイデンティティを見出す必要はなくなったのではないか。
 良くも悪くも島にはグローバリゼーションの波が押し寄せた。そして「ただ楽しいから続ける」には、野球は用具をはじめ負担が大きいスポーツだ。

 本作の最後は、インタビューされたかつての選手たちが球場の跡地に集まって久々にプレーする場面となる。10年余を経てまだまだ元気な中年の選手たちが楽しそうにボールを追うシーンは、なんとも言えない感情を呼び起こす。
 ウスティカが野球で名を馳せたのは素晴らしいことだったが、前々回も書いたように、野球をやる意味は勝利や名誉だけにあるのではない。この映画を機に島の人々が野球そのものの楽しさを思い出し、再び野球熱が高まっていることを願わずにいられない。

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