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甲虫になるときは

 なんとなく入った部活動は蒸し風呂のような体育館で狂ったように壊れかけの大量のプラスチックの羽根を打つ、奇妙なものだった。

「ぜえぜえ」

 外でのランニングはいい。ゆっくり走って木陰で存分に寝転んで最後の曲がり角からぜえぜえすればいいんだ。そもそも高校からいきなり未知のスポーツをするってのは一体全体どうしたことなんだ。それもそう、田舎にはそんなハイカラな部活動はなかったからだ。ロベカルのフリーキック集だけ見てウイイレして壁にシュートしていればよかった。スポーツ雑誌に載ってた長い名前の選手の名前を検索しなければよかった。トでもドでも変わりゃしないってのにあいつらは口を揃えて訂正した。どうでもよかった。たったひとつの濁点でスポーツの本質は変わらない。


 嘘をついた。ゆっくりでもなく、木陰にも入らず、僕は、「ぜえぜえ」、走っている。僕の中のタウフィックヒダヤットはバックハンドでクロスにクリアーを打つドロップをカット気味に打つ無駄のないストロークへの挙動を繰り返す。なんとなく入ったふりだ。格好悪い。本当は、真剣に僕は、走っている。

 一位になってもレギュラーになれないランニング。読ませる気もないブレた字でノートにタイムを刻む。顧問が読むわけがない。試合に勝て。試合に勝てなかった僕は









「……お先に失礼します。」
 2週間ごとのスパンで同じことを繰り返し、同じ帰路を辿る。僕はそれがいい。それがいいんだ。同じことほど安心できることはない。キーを回してエンジンをかけた。金曜日。決戦じゃない金曜日。どこにも寄らないでもいい。帰ったら、ソファーに座らないことにしよう。さっさと生活をしよう。明日の予定を立てるなんて愚かなことはしない。今日は今日。僕が愛せるToDoリストを。

・晩飯
・酒
・映画



 今日はバック駐車の調子がよかった。すこぶる気分がいい。そう、気分がいい。しかも自分の家は最高だ。何を作ろう。シチュー、ペペロンチーノ、素麺、うどん……スマートフォンを眺めたらいつの間にか30分経った。彼女が帰ってこなければもっと長いこと画面に釘付けだったろう。ラッキーだ。今日は限りなく運のいい日。

「おかえりなさい。」
「ただいま〜」
「お腹すいたね。」
「ね〜〜〜〜〜」


 彼女は僕の生活にある唯一のイレギュラーといえる。違和感を持つ社会人もいるだろう。僕は30歳だ。全ての仕事のトラブルの対処法は謝罪感謝笑顔の三点セットで対処可能だ。いわゆるイレギュラーではない。この週末の疲労に名前をつけるとすれば脳味噌の筋肉痛。脳味噌ジムに通ってお金を稼いでいる。世には心と呼称されている部分の脳味噌は強ければいい。実際は細かく脳味噌の役割が何本かの線で分かれているわけではないのだがそれもそれでいい。曖昧なことは曖昧であり、人間は矛盾する生き物でいい。ピンクが好きと言っていてもたまに黄色を買ったっていい。僕が笑うと彼女が笑うのもいい。だけれども僕が幸せすぎて笑うと彼女は幸せすぎて泣くことがある。蝿は1匹につき100個卵を産む。研究心がくすぐられる出来事。天敵なしの蝿が地球を覆い尽くすのに一年は短すぎる。彼女と僕が一緒に暮らすことはそういうことより奇妙ではないと言える。ある種、好きという感情は芋虫が蝶という全く違う見た目の生き物になることのように不思議で、解明不能なものかもしれない。恋する前と恋する後の人間の完全変態ということになり、そして今、僕は、1日で一番イレギュラーな質問をする。



「晩飯、何がいい?」
「なんでもいいよ。」


 僕は会話をへんてこにする。へんてこであると彼女は微笑む。つまりへんてこであるということは素敵なこと。少しだけ彼女を困らせることもいいことだ。何故なら笑い顔と困り顔は両立する。僕はどちらの顔も好きだった。


「じゃあハンバーグに豚カツにカレーライスでいいね?」
「てんこもりだ、でもさっぱりしたのたべよ〜よ」


 曲がりきれぬ臍。ガードレールに追突して落ちても優しさに受け止められる。僕は冷蔵庫を見ながら微笑む。てんこもりでもきっと怒らない彼女のことを研究するにはまだまだ足りぬ時間。人生はこれから何ジフィあるのだろう。1ジフィは大体百分の一秒だ。この場合単位は小さければ小さいほどいい。彼女との時間は非常に惜しいものであって、それをより細かく知って綿密に計画を立てたい。まずは彼女が食べたい晩飯を知ること。



「じゃあ具体的には何がいいの?私はいつもハンバーグがいいと思ってる。」
「どしたの〜〜?わたしはおすしがいい!どう?ハンバーグ寿司もあるし。ほら。ね?」



 冷蔵庫は空っぽに近かった。暑すぎる時期に頻繁に買い物にいくことは愚か者のすることである。とうに賞味期限の切れた調味料たちと少しのビールと少しの炭酸水と野菜クズとたくさんの冷凍食品。生暖かい息を吐いて、3人で暮らしているみたいね。と彼女が言ったこと。その何気ない発言を忘れられず冷蔵庫が家に”いる”と思うことで優しい気持ちが温泉のように未だ湧くこと。空っぽ冷蔵庫と二人で彼女に提案する。



「じゃあ寿司屋に行こう。百円じゃないけど回るやつ。」

「いいね〜〜!すぐいこう。でも少しおしゃれしてい?」

「いいよ。」






 試合には出られなかった。女子サッカー部がなくて、ロベカルにはなれなかった。だのにタウフィックヒダヤットにもなれなかった。公式戦の枠にすら入れなかった。適当にあてがわれたダブルスで練習した。怒られるだけの塊だ。それでも走った。タイムの刻まれたノートを食べて誰も見ぬ唯一の自身の努力の証すら消したいと考えた。だが、僕の脚が前に進めたものは距離だけではなかった。僕は何事にも真剣であり続けるだろう。ランニングのように同じ仕事をする。怒られない。愛し愛される。怒られていた塊は蛹。見ててよ僕の完全変態。僕は小さい。小さい女。虫は小さくて強い。僕もそう。そうありたい。


 男の子になりたいわけじゃない僕の心は少年が喋り続ける。

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