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2021年9月コロナ陽性に。私がみた世界

「まぶしい…」
数週間の隔離期間を経て久々に外の景色をみた。

自分の体が自分のものではないような不思議な感覚で、歩きにくい。まるで全身に養分が行き渡っていないみたいに。

Tシャツからはとがった鎖骨がみえ、筋肉質だった足はなく、スキニーをはいても目立つシワがそこにある。

ちょっと数ヶ月前までの自分は、まさか毎日何千人もの陽性者が出るうちの1人になるとは思っていなかった。

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9月上旬、体調の変化を感じた私は、母に伝え、すぐに相談センターに問い合わせた。そこから、かかりつけ医に行き即PCR検査を受けに。

「きっと風邪だよね!」そう何度もいう母を横目に助手席に乗る私は、今まで感じたことのない体の違和感に戸惑っていた。

そして、突然あふれ出す涙。
これはなんの涙だろう。


そんなこと思っていると、隣で母の声がした。
「何泣いてんの?まだ結果もわかったわけじゃないんだから。」23歳にもなってこんなに母の前で泣くとは。恥ずかしさと共にいつもの母がそこにいてすごく安心した。


その言葉とは裏腹に翌日、「陽性」と判定される。
私の行動履歴から同居する両親と彼が濃厚接触者と判断され、自宅で隔離された扉の向こうからは両親が職場に電話する声が聞こえた。


「私のせいでごめんね。」
濃厚接触者となった家族や彼には、申し訳なさでいっぱいだった。

「誰のせいでもないよ。大丈夫だから。」
電話越しにそう言う彼はいつものように優しい言葉をくれた。でも、本当はこわかったよね。

紺 モチベーション デスクトップ壁紙

私の陽性判定から、数日後。
家族と彼のPCR検査の結果が「陰性」とわかった。

心からほっとした。


その数時間後には扉の外から両親の話し合いの声が聞こえる。軽く言い合いにも聞こえた。
私を「ホテル療養にするか」「このまま自宅療養にするか」という内容で。

「24時間看護師の方がいる中で万が一の出来事にも素早く対応してもらえる環境は安心だろう」と主張する父。

その一方で、「私が食べれそうなご飯を作ってあげられたり、同じ家にいることで私がちゃんと生きていることを感じられる」そういう母。


ホテル療養中、誰にも気づかれず意識を失っていたというニュースをTVで見たのだろう。母は私の存在を近くでちゃんと確認していたいと強く訴えているようだった。

結局、私がどうしたいかという結論に至り、ホテル療養を選んだ。同じ家で暮らすことで両親が陽性になる可能性も十分あったから。それだけはどうしても避けたかった。

ヴィンテージ タイプライター 引用 デスクトップ壁紙

数年前、留学で思い出の詰まった大きなスーツケース。今やマスクや薬、ゼリーなどで埋め尽くされていた。いつもより重い。

保健所が手配してくれたワゴン車が自宅に迎えに来た。離れたところから手を振る母の顔は頑張って笑った顔で寂しそうだった。


ホテルに向かう前にもう1人コロナ感染者の女の子を迎えに行くという。運転席との間にはガッチガチに固められた仕切り。自分がどれだけ危険人物なのか思い知らされた。

もう1人の女の子も私と同じくらいの年代だろうか。お互いを気遣える気力はなく、控えめにする咳だけが車内に響いた。


「うぅ、気持ちわるい…」

車が揺れるたび吐き気におそわれ、ホテルに着いた瞬間吐いてしまった。駆け寄ってくれる看護師の方々。
嫌な顔一つせず、血圧と体温を測り部屋に連れて行ってくれた。

きっとその方々のお仕事だからと言い切ってしまえばそこまでだ。でも、TVでは映らない現場の光景と看護師の方の優しい言葉は私の心にしみた。

大胆不敵 モチベーション 引用 デスクトップ壁紙

あまり良いスタートとは言えないけれど、ホテル療養が始まった。電気もTVもつけて寝るくらいちょっと怖がりな自分に呆れていると、いつの間にか朝になっていて。

ひっきりなしにスマホに通知がくる毎日。
みんな私が実は寂しがりやって知ってるのだろうか。


毎日数時間毎にビデオ通話をかけてくる両親。
「生きてる?」から始まるおばさんからのLINE。


私が眠くなるまで電話越しで毎晩色んなことを    話してくれる彼。


仕事で忙しいのに帰宅までの30分間         車から電話してくれる友人。


「また戻って来てくれるのみんな待ってるからね!」
そう伝えてくれる職場のマネージャー。


差し迫っていたセラピストのテストを快く      日程変更してくれる講師。


ポジティブな言葉を掛けてくれる          大好きなコミュニティのみんな。


1人だと思っていたホテル生活は、ただの妄想だった。


そして、体調確認を毎日何度もしてくれる看護師の方。
あまり食欲がないと、すぐにゼリーやおかゆに変えてくれて、励ましと安堵の言葉を必ず掛けてくれる。


周りの方々の支えや言葉に想いをのせるように、私の体調は回復していった。

そして、ホテル療養を終え久々に帰った自宅にはいつもの母がそこにいて、笑顔は戻っていた。

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きれいごとと思われるだろうか。
表現が大げさだと言われるだろうか。


繊細な内容で全ての人がみる景色では        ないかもしれない。

それでも、自分がみたものをちゃんと残しておきたかった。TVやSNSなどのメディアで放送されない。自分が感じた世界を。


時々、数年後に後遺症を引き起こしている自分を想像してしまう。それくらい未知な感染症でもあり、世界中を混乱にまねくものだ。

2021年の9月は私が想像していたものとは大きく変わってしまった。

しかし、人のあたたかさや愛情を感じた事実は決して変わらない。日常で生きられる奇跡を身にしみて感じた。


自分の一つの財産としてここに書き留めておこう。
支えてくれた人々への「ありがとう」を忘れずに。









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