愛犬の死と愛玩動物を飼うということ

最近、愛犬が虹の橋を渡りました。柴犬♀で、15年と半年ほど生きました。

去年に前庭疾患を、今夏に甲状腺機能低下症を発症。それまでは大きな病気も無く健康に過ごした子でした。

介護が必要な状態になってから11ヶ月ほどで亡くなりました。
今月に入ってから自力で歩く事が難しくなり、最期は家族に見守られながら逝きました。

亡くなる直前、排泄物が垂れ流しになったと思ったら呼吸が止まり、私は考えるよりも先に心臓マッサージをしていました。しかし再び心臓が動き出すことはありませんでした。

家族が愛犬の死を目の当たりにして涙する中、私は「おしっこ出し切らなきゃ…」と愛犬の腹部を押して尿を出し切りました。

別の記事でも書きましたが、私は昔、動物看護師をしていたことがあったのです。
もう辞めてから何年も経ち、忘れてしまった事ばかりだと思っていたのですが、愛犬の死をきっかけにいろいろと思い出したようです。

流石に家族が泣いている時に肛門と口に脱脂綿を詰めるのは自重しました。

私は、誰かが泣いていると泣けない質なのですが、まさかあんなに可愛がって、あんなに介護した愛犬の死ですら泣けないとは思いませんでした。
初めて安楽死に立ち会った時はあんなに泣いたのに。

眠る前に、ベッドの上で少しだけ涙が流れましたが、家族のように咽び無くことはありませんでした。
火葬して、骨だけになってしまっても泣きませんでした。

愛犬が高齢だから覚悟していたとは言え、私はなんて冷たい人間なんだろう。
自分で自分が理解できませんでした。

しかし私はそれ以上に妹が理解出来ませんでした。

愛犬の死を一番悲しんでいた妹ですが、愛犬の死からまだ数日しか経っていないのに愛護センターやペットショップに柴犬がいないかチェックしていたのです。

寂しいのはわかります。
しかしまだ納骨もしていないのに、「次の子」を考えているのが私にはわかりません。

そんな妹の姿を見て、私は動物看護師時代を思い出しました。
動物看護師という職業柄、動物の死を目の当たりにすることはままありました。
飼い主が愛犬・愛猫の死に涙する姿を何度も見ました。

そしてあまり間を置かずに、新しい子をお迎えする様子も何度も見ました。

あんなに悲しんだのに、また飼うのか。
懲りないな、と。
自分でもあまりに冷たい考え方だとは思うのですが、そう思ってしまうのです。

ペット…愛玩動物とは、「ほぼ確実に先立つこども」だと私は思います。
かわいいから飼って、家族の一員として過ごし、最期は人間と同じように弔う。
そして悲しさと寂しさを埋めるために、再び新しい子を迎え入れる…。

現在の日本では、ペットショップでの生体の展示販売でそれが容易く出来てしまうのです。

愛玩動物を飼うとは、何なのだろう。
結局、全て人間の自己満足なのではないか。
かわいい生き物を愛でたいという欲求。そのために過剰に繁殖されたり、海外から違法に輸入されたり…。

愛玩動物を飼うことに深い意味など、考えるだけ無駄なのでしょうか。









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