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病的な恋のロンド〈15話〉

#創作大賞2024 #恋愛小説部門

15 日魚子、ぎくしゃくとする。


「日魚子?」
 きづかわしげな大地の声で、日魚子は我に返った。
 遠かった喧騒が急に戻ってくる。日魚子のまえには、カフェの店員が運んできたランチプレートが置かれていた。流行りの薬膳カレーのお店だ。日魚子がスプーンも持たずにぼんやりしているので、心配した大地が声をかけたのだろう。
 今日は朝から大地と美術展に行き、そのあと美術館近くのカフェに入った。
「あっ、ごめん。ええと、なんだっけ?」
「キャラメルが定期健診ついでに千葉のじいちゃんの家に行くってはなし」
 話をちゃんと聞いていなかった日魚子にさして不機嫌になったようすはなく、大地が続ける。キャラメルは大地が飼っているコーギーのことだ。やんちゃざかりの男の子。
「ああ、はじめさんのおじいさま、獣医さんなんだよね」
「街のちいさなお医者さんってかんじだけどね。ちなみにおやじは長野でトリマーやってる」
「わんちゃんの美容師さんみたいなかんじ?」
「そうそう。じいちゃんとばあちゃん、キャラメルが大好きだからさ、連れて帰ると一週間くらい返してくれない」
 息をつく大地に、日魚子はくすくすわらう。
 あっよかった、いつものテンポに戻ってきたとそのことに頭の片隅でほっとする。
 日魚子と大地は最近なんだかぎくしゃくしている。
 理由は思い当たっている。あの台風の夜のせいだ。
 あの晩、不倫男用に温めていた湯船があったことを思い出して、「お風呂つかう?」と日魚子が訊くと、「いや……、うん」と大地は妙な間をあけた。
 日魚子としては、大地が風呂を使っているあいだに爽と森也をベランダから逃したくて訊いたのだが、よく考えると結構、きわどい台詞だったことにきづく。日魚子だって大地がはじめてというわけではないので、部屋に泊めることの意味がわからないわけじゃないけれど。あと大地は、日魚子がもうすこし待ってほしいと言ったら待つと思う。そういうところがぜんぶ、元カレたちとはちがう。
 外した時計をローテーブルに置いて、大地がくちづけてきたとき、はじめ日魚子は今日の下着上下そろえていなかったかもしれないとか、避妊具のストックはちゃんとあったっけ、ということを考えていた。それから、ベランダの外にふたりの男たちがいることを思い出して、さすがにこのまま流されるのはまずいかもしれない、とちょっと理性を働かせて思った。思っていたのに、キスが深まってくると頭がふわふわして、ぜんぶどうでもよくなってしまう。
 日魚子はいつもこうだ。キスがすきだ。ハグも。それ以上のことも。求められているとほっとして、理性のくびきがおかしくなって、とろけてしまう。
 何度も続けていたので、息が吸えなくなってソファに倒れ込む。大地の大きな手が日魚子の髪に挿し入り、唇をまたあわせられる。
 そのとき、ふいに、あっこれちがう、と思った。
 なんでそんなことを思ったのかわからない。こんなにやさしくキスをされているのに、こんなに求められているのに、これじゃない、と日魚子は思ってしまった。混乱した。そんなことをつきあっているひとに対して思ったことは一度もなかった。日魚子はほんとうに快楽に弱くて、自分は求められている、愛されているという快楽物質にとても弱くて、いつも一度そうなると理性が働かなくなってしまう。なのに、これはちがう、とはっきり思った。
 きづけば、大地の身体を大きく押しのけていた。
 呼吸が乱れている。大地は純粋に驚いたようすで日魚子を見た。何をしてしまったのかわからなくて、日魚子も動揺する。
「あっ、わたし、その……」
 傷つけた、と思った。大地を傷つけた。
 自覚がなかったとはいえ、自分から誘っておいて、このひとを拒んだ。
「生理きてる……」
 うそだ。今日はまだ何も来ていない。
 このひととなんだってできる。でもしたくない。
 どうしてそんなことを思うのかがわからなくて、ひどく動揺してしまう。爽と森也がベランダにいるからか? 確かにふつうならそうだろう。でも、いつもの日魚子だったらたぶん、キスをされたらもうとろけている。なぜ、今日に限ってこんな反応をする?
「あ、そっか……。俺のほうこそ、ごめん」
 日魚子の動揺を文字通り月のもののせいだと大地は受け取ったらしい。
 安心させるように髪を撫でられる。突き放されていないということに安堵して、日魚子は大きな手に身をゆだねる。その夜は結局、ふたりでソファに並んでDVDを見て過ごした。
 大地のまえで薬膳カレーを食べながら、あれはなんだったのだろうと考える。
 大地への熱が醒めた? そんなことない。いまもちゃんと大地がすき。すき……だと思う。年季ものの時計をはめた手首も、大きな手も、大樹を思わせる身体のラインも、バランス感覚のあるまっとうさも、ものを大事に扱えるところ、誠実なところ、みんな好き。でも、ほんとうは、好きじゃないのかもしれない。今までつきあってきたひとたち、ぜんぶほんとうは好きじゃなかったのかもしれない。日魚子が好きだって思っていたかっただけで、ぜんぶちがったのかもしれない。不安でたまらなくなる。
「日魚子」
 カレーを食べ終えると、冷やした枇杷茶を飲みながら大地が言った。
「キャラメル預けているあいだ、よかったら泊まりにいかない? ふたりで」
「え……」
「一泊か二泊で、温泉とか」
 それはすごくうれしいことのはずだった。
 彼氏とふたりで温泉旅行。なんてすてきな響きなのか。なによりも、台風の一件で生まれてしまったふたりの溝を大地が埋めようとしてくれているのがうれしい。
「わっ、行きたい……」
 なのに、どうしてか声がしらじらしい。
 大地はきづいていないかもしれない。でも、日魚子はしらじらしいとわかってしまう。自己嫌悪に胸がふさがれ、息がつぶれそうになる。

 爽は膝にのせたきなこの首をゆるゆると撫でている。
 いつもの光景である。日魚子は洗い終えた食器をしまい、やかんを火にかける。急須にほうじ茶の茶葉を入れ、湯飲みを出す。料理は爽がぜんぶやってくれるので、後片付けや食後のお茶は日魚子が請け負う。なにひとつ変わったところはない。
 ひと月くらい不在がちな日が続いたあと、爽はまたふつうに家に帰ってくるようになった。台風の夜のあとくらいからだろうか。どういう心境の変化があったのか、あるいはつきあっている彼女がまた変わっただけなのか、日魚子にはわからない。
 どちらが何というわけでもなく、滞りがちだった夕ごはんも再開した。爽と日魚子はいつもこんなかんじだ。ときどき疎遠になり、またちかづいて、そんなことを繰り返しながらずっとつきあっている。
「そうちゃん、水城さんにもらった豆煎餅食べる?」
「たべる」
 ほうじ茶に同僚の水城からもらった煎餅をつけて、爽のまえに出す。
 爽はめずらしくスマホをいじっている。「なに見てるの」と訊いたら、「宿の予約」と返された。また彼女がらみか。今日はあっちもこっちも、皆、旅行、旅行である。秋の行楽シーズンというやつか。
「あいつ、もう来てない?」
「あいつ?」
「不倫男」
 煎餅の包み紙を破りながら、爽が尋ねた。
 もうすっかり忘れていた。「来てないよ」とこたえると、「ふうん」と言う。
 会社とちがって、家のなかの爽は言葉が少ない。心配していた、とは言わない。ほんの数ラリーで終わった会話で、心配してくれたのか、と日魚子はわかる。べつに日魚子がとくべつ言葉の裏を読めるたちだからではない。爽とのつきあいが長いからわかる。爽の根っこのほうにある、見えづらい情の深さ。
 ふたりで煎餅を食べ始める。会話がなくなる。
 居心地はわるくない。日魚子は爽がまとっている沈黙がすきだ。爽の腕に抱えられて、きなこがうとうとと目を細めている。一緒に眠くなってきた。日魚子がおかしなことさえ考えなければ、このゆるやかな空気はあたりまえのように日魚子を包んでくれる。
「ひな」
 きづいたら、ほんとうに眠っていた。
 ソファに頭を預けてうたた寝をしていたらしい。肩を揺すった爽が「寝るなら帰れよ」と言う。落ちかけたクッションを取るためにか、爽が日魚子の頭の横あたりに手をついている。凹凸のある咽喉のラインをついと指で撫ぜた。爽がいぶかしげな顔をする。
「くすぐったい。何?」
「な、なんでもない」
 そういえば、わたしはいつからこんなにも恋に執着するようになったのだろう。
 恋。運命の相手。おかあさんとおとうさんみたいな、簡単に壊れてしまった愛とはちがうものをくれるひと。ただし――爽以外。その条件設定はいつ生まれたのだったか。赤い実をつけたナナカマドの下で、幼いわたしは何を誓ったのだったか。
 大事なことだったはずなのに、うまく思い出せない。

  ◇◆

 ひと月後。秋の行楽シーズンのただなか、日魚子は大地と飛騨の温泉郷にいた。
 約束どおり、温泉旅行に来たのだ。
 昔の街並みを残す街道をのんびり散策したあと、すこし早めに旅館に入る。夕食も旅館で頼んでいたので、あとは宿でゆっくり過ごすつもりだ。
 大地がチェックインの手続きをするあいだ、エントランスホールをぶらついていた日魚子は、次いで旅館に到着したカップルに遠目にきづいて、おや、と思った。美男美女――ではない。
「そうちゃん」
 やってきたのは、深木爽と土屋美波だった。

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