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病的な恋のロンド〈14話〉

#創作大賞2024 #恋愛小説部門

 14 爽、かくれんぼする。


 なにがどうしてこうなった、と爽は言いたい。
 いったいなにがどうしてこうなった?
「――はあい! 今、鍵あけるね」
 玄関に向かった日魚子が部屋のドアを開ける音がした。明るく詫びる大地の声。ごめん、夜中に急にびっくりしたよな。ううん、いいよー、あがって。応える日魚子の砂糖菓子みたいな声。――を爽は吹きすさぶ雨風のなか、不倫男こと森也と身を寄せ合ってベランダで聞いている。
 森也を引きずって爽の部屋に避難するよりまえに、大地が日魚子の部屋に着いてしまったせいだ。日魚子の部屋はふつうの1LDKで、男ふたりが隠れる場所はない。結果、ベランダに逃れることになったのだが、あいにくの暴風雨である。万が一にも大地がベランダをあけることはないだろうことと、多少の物音は風音が消してくれることはよかったのかもしれないけれど。
 ……いや、よくない。よくないだろう、断じて。
 乾かしたのにさっそく濡れたパーカーに辟易として、爽は仕切り板で隔てられた自分の部屋のベランダをのぞいた。普段の爽だったら、ベランダの手すりから身を乗り出して自分の部屋に渡ったかもしれないが、この暴風雨の中でそれをやる自信はない。防災用の仕切り板は簡単に蹴破れるようなものだけど、さすがに音で大地がきづくだろう。
 とりあえず朝になって大地が帰るまで、ベランダにいるしかない。
「なあ、あいつ誰なんだよ?」
 爽の横で膝を抱えていた森也がひそひそと訊いた。
「日魚子のいまの彼氏」と爽はこたえる。
 おまえの出る幕はねーよという牽制をこめて。
「え、じゃあ、君は誰なの?」
「だから、日魚子の部屋の隣人だって」
「嘘、ほんとうにただのご近所さんだったの……?」
 森也は毒気が抜かれた顔でまじまじと爽を見た。
 日魚子の彼氏なら牽制したいが、ご近所さんなら巻き込んでちょっとかわいそうだったな、みたいな気持ちが透けて見えるのが腹立つ。こんなやつに憐れまれるのはごめんだし、日魚子を捨てておいて元カレ面するな、と思う。
 ベランダの擦り硝子にリビングの灯りがぼんやりと滲む。
 あまり聞き耳を立てたくないけど、日魚子と大地が笑う声が時折聞こえてきて、しょっぱい気分になる。というか、恋人ふたりをベランダ越しにクズの元カレとご近所さんが見守っているというこの状況がほんとうにおかしい。風の加減か、「はじめさん」と呼ぶ日魚子の声がはっきり聞こえて、背中にじりっとした熱が走る。
 爽は窓ガラスからもうすこし離れようと腰を浮かせた。それで、カーテン越しにキスをする恋人たちのすがたが目に入ってしまう。――ついでにそれをとなりでガン見している男のすがたも。
「あんた、すこしははばかれよ……」
「ひなちゃんが別の男と。うっ、見たくない……」
「なら見るなってば」
 男の頭をつかんで無理やり前を向かせる。
 日魚子も日魚子で、男ふたりがベランダにいるのだから、ちょっとははばかれよ、と思う。でも、もう頭から抜けているのかもしれない。目の前にいる大地でいっぱいで、爽もクズ男もどうでもよくなっている。薄情というより感情のキャパが少ない。日魚子はそういう女だ。
「なんか裏切られた気分……」
 膝を抱えた森也が唇を尖らせてつぶやいた。
 やけにかわいい仕草だが、三十五歳の男がしてもぜんぜんかわいくない。
「あんたがそれを言うわけ」
「だって俺を先に好きって言ってきたの、あの子のほうだったのに」
 うるさい、黙れ。
 実力行使で黙らせたかったけれど、ガラス戸一枚を隔てて日魚子と大地がいるから騒げない。
「なのに、もう別の男とつきあってるんじゃん。なんだよ運命って。誰でもよかったんじゃん。ほんとあの子、そういうとこ軽い――」
 男の襟を乱暴に引き寄せ、こぶしを固める。蒼褪めた森也がひゅっと息をのみこんだ。ほんとうはこのままぼこりたかったけど、すんでで襟を放す。
「それ以上しゃべると殺すぞ」
 低い声で脅すと、さすがにおののいたらしく森也は黙り込んだ。
 こいつにとっての日魚子はそういう軽い女だったんだろう。べつにどうだっていい。そういう風に見る男を選んだ日魚子がわるい。でもこんな男に――こんな男に惚れるなよなって思う。どんだけ見る目がないんだよ。こんな男とつきあいたいなんて思うな、運命のひととか言うなよ。キスをさせるな、身体をゆるすな、……こんなクズでもいいなら俺でも誰でもいいじゃんって、空しい言葉ばかりが浮かぶ。
「君さ」
 爽をじっと見つめた森也がおもむろに口をひらいた。
「君、ひなちゃんのこと好きだろ」
「はあ?」
「だって、そういう顔してるよ」
「どういう顔だよ」
「そういう顔だよ」
「知るかよ。好きだよ、わるいかよ」
 途中で面倒になってしまって投げやりに言う。
「言っとくけど、おまえよりずっと前から好きなんだよ。一緒にするんじゃねーよ」
 言いながら、どういうマウントだよ、と笑えてきてしまう。
 ずっと好きだから、ずっとずっとあの子を想っていたから、だから何の意味がある? 大地は日魚子と出会って半年だ。でももうぜんぶ、手にしている。大地やとなりのクズ男でさえもほんの三秒で手に入れたものが、爽は二十五年かかっても手に入らない。爽がいる場所は、一生日魚子の部屋の外だ。
「君もくるしいんだな……」
 なぜかとなりのクズ男が真摯な声で慰めてくるので、「おまえが言うなよ」と爽は顔をしかめた。むなしい気分になっていたのに、逆に正気に戻ってしまった。
 
 その晩は森也の嫁の愚痴をえんえんと聞かされた。
 ほんとうにどうでもいい。
 話し半分に聞き流しているうちに、いつのまにかうとうとと寝入っていたらしい。
 晴れ渡った空から朝陽が射している。台風は去っていったようだ。
 ベランダにできた水たまりに、いっそ暴力的なくらいの光が反射している。それを目を細めて見つめていると、背後のガラス戸がそろりと引かれる気配がした。
「おはよう」
 申し訳なさそうに日魚子が顔をのぞかせる。
「……帰った?」
 言葉少なに尋ねると、「うん、さっき」と日魚子が神妙そうに顎を引いた。
「ごめん……。冷えちゃったでしょ。お風呂のお湯わかしなおすよ」
「いいよべつに」
 無意識のうちに部屋に大地の残滓を探しそうになって、思考を止める。不毛だ。
 代わりに日魚子の頬に触れた。「な、なに」と日魚子が警戒した風に尋ねる。
「ここ腫れあがって、ホラーみたいな面になってたひなを思い出した」
「……なんでそれ今思い出すかな」
「ガラス戸でクズ男がそろえば思い出すだろ」
「否定はしません……」
 まるい頬にもうすこし触れていたかったけれど、手を下ろして、森也の首根っこを引っ張る。
「ほら、おまえも帰るぞ」
「僕はお風呂であったまりたいよ」
「帰るぞ」
 日魚子をなじったくせに調子がいいことを言っている男を引きずりだす。
 いたいいたい、と顔をしかめながら、しかし森也はさほど抵抗せずについてきた。森也を日魚子の部屋から一度押し出し、自分もドアノブに手をかける。
「ひな」
 思いついて爽は振り返った。
「大地は――やさしい?」
 日魚子はなぜかふいに表情を消した。
 へんな間があく。え、あいつも実はモラハラ男だったりするのか? 爽が若干いぶかしんだところで、「うん」と日魚子がはっきりうなずいた。
「やさしいよ」
「……へー」
 自分で訊いたわりに適当な返事をもどして、ドアをひらく。
 じゃあ、おまえ、しあわせになれよ。
 とは言わなかった。さすがにそこまで人間ができていない。
 ドアの向こうでは森也があくびをしている。
 ぜんぜんすがすがしくない。でもひとりでこの部屋を出るのではなくて、多少なりともマシな気もしている。度し難い。つられてあくびをしかけた爽の視界を、台風明けのまばゆい朝陽が白く染めた。

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