病的な恋のロンド〈13話〉
13 日魚子、窮地に陥る。
「追い出せ」
アパートのエントランスから外に視線を投げやり、爽が言った。
台風が近づいているため、強くなった風が道端の空き缶を転がしている。少し前まで小降りだった雨は、時折車軸を流すように強くなった。
「でも」とためらった日魚子に舌打ちして、爽は森也の肩をつかんで外に押し出す。今日の爽はいつも以上に怒りの沸点が低い。もともと爽は会社で余裕ぶって見せているほど寛容じゃないし、すぐに手が出る。でも今日は放っておくと、森也を暴行しかねない勢いだった。
「待って! そうちゃん、待ってってば!」
痛い痛い、と悲鳴を上げる森也をつい庇おうとすると、「おまえこそ、いい加減にしろよ!」と怒鳴られた。本気の怒声に肩がびくっと跳ねる。
「こいつはおまえに手をあげたんだぞ!?」
「でも、わたしだって歯を――」
「折られるこいつがぜんぶわるい」
その理屈はちょっとどうかと思ったが、爽はにべもない。
苛立たしげに頬をゆがめて、爽は森也を水たまりに突き飛ばした。爽が怒る理由がいまさらだけどわかってしまい、日魚子は呆けた顔をする。
一年前。森也に妻子がいたことがばれて殴りあいの喧嘩になったあと、顔をお岩さんみたいに腫らした日魚子を「馬鹿」「きもい」「どん引く」と爽はめちゃくちゃなじった。なじりつつも、腫れた頬にタオルを巻いた保冷剤をあて、ガラスで切った手は止血して、病院に連れて行ってくれた。あのときは、またクズ男を選んでしまった日魚子に呆れて罵倒しているのだと思っていた。それもあっただろうけれど、でもきっとほんとうはちがった。爽は日魚子が殴られたことに憤って、腹を立てていたのだ。
わかってしまうと、涙がぼろっとこぼれた。
驚いた風に爽が日魚子を見る。女なんていくらでも泣かせてそうなのに、こういうときに動揺を見せてしまう爽の人間性が、日魚子はいとしいと思う。
「……なんで泣くんだよ」
「そうちゃんがやさしいから」
「はあ?」
「なんだか胸が痛くなってしまった……」
涙を拭うと、大きく息をつく。
「森也さん」
水たまりに突き飛ばされてすっかり濡れ鼠になっている男に、日魚子は傘を差しだした。
「とりあえず、うち来て。タオルと着替え出す」
「おまえな」
爽が苛立った声を出す。この期に及んでずるずる情に引きずられている日魚子に、いい加減にしろと思ったのかもしれない。
「でも突き飛ばしたの、そうちゃんだし、マンションの前で死なれても困るじゃん」
「死なねーよ。こういうやつは人類の半分滅びても、ひなみたいな女に寄生して生きてるよ」
「……まあ、そうかもしれないけど」
すぐそばで交わされる会話をよそに、森也がけふけふと咳をする。だいぶ弱っている。よろめきながら立ち上がった森也に手を貸そうとすると、爽が割り込んで腕を引っ張り上げた。支えるというより半ば引きずっている。
「なっ、なんだよ君は!」
「ぐだぐだ言ってると放り出すぞクズ」
こういうときの爽はほんとうに口が悪い。
オートロックを解除して中に入り、エレベーターを呼ぶ。
男ふたりと日魚子を載せたエレベーターはいつもより狭く感じる。元カレととなりに住んでいる幼馴染と日魚子。どうしてこうなった、というメンバーである。
「そいつ、廊下に出しとけよ」
「え、でもほかの部屋のひとに迷惑でしょ」
「じゃあいいよ。あいつは俺の部屋に突っ込む」
爽はなにがなんでも森也を日魚子にちかづけたくないらしい。
「それで俺がおまえの部屋に泊まる」
「い、いいよ!?」
すこしあわてて、日魚子は爽の提案を打ち消しにかかる。
爽はふしぎそうな顔をした。爽の部屋に日魚子が泊まるのも、日魚子の部屋に爽が泊まるのも、ときどきあるはなしだ。なんだかおかしな否定の仕方をしてしまった気がして、日魚子はますます落ち着かなくなる。
「三人で泊まろう! ね!?」
「……なんだよ、その愉快なメンバーは」
「さすがに森也さんとふたりはいやなんだけど、そうちゃんの部屋に森也さんが入るのもいたたまれないわたしの心中を察してください」
こういう言い方をすれば、爽も断れまい。案の定、爽は息をつき、ポケットから取り出しかけた自室の鍵をしまった。
部屋をあけると、男ふたりを玄関で待たせておき、バスタオルをあるだけ持ってくる。男たちが身体を拭いているあいだにエアコンをつけ、バスタブに湯をためる。日魚子にとっては、人類の敵に等しい不倫男のためにいそいそお風呂を用意しちゃったりして、ほとほと嫌気が差してくる。
森也との出会いは、三度目に就職した人材派遣会社だった。日魚子が事務員で、森也は取引先のシステムエンジニアだった。IT系の特殊用語にうとい日魚子にも丁寧にわかりやすい言葉で話してくれるところとか、笑うと眦に皺が寄るところとか、誠実で頭よさそう、というかんじがしてすぐに好きになった。夕食に誘ったのは日魚子からだった。宗教かぶれの闇金男は、はじめやたらと高いフランス料理店に連れていってくれたけれど、森也が「こことかどうかな」って挙げてくれたのは、気取らない居酒屋で、そういうところもすてきだと思った。
ぜんぶスマホの家族写真を見たときに壊れたけど。
そういえば、あのときも森也さんお風呂に入ってたな……と思い出して、入浴に縁がある男なのかな、とげんなりする。入浴というか、水か? 今日は台風だし。
「ひな」
洗面台の前でひとりもんもんとしていると、身体を拭いたらしい爽が濡れたバスタオルをまとめて持ってきた。
「あ、着替え出そうか?」
「うちから持ってきた」
「……森也さんにも?」
「投げた」
やり方については日魚子も追求すまい。
バスタオルを洗濯機に突っ込んだ爽は、濡れそぼったシャツをわずらわしげにはぎ取って、別のタオルで身体を拭いた。均整がとれた上半身があらわになる。爽の裸なんて腐るほど見たから、いまさら目新しさなどない。ないと思っていたけど、それは一緒に暮らしていたときに目にしていただけで、そういえば日魚子は爽のにおいとか体温とか、膚のかたさとか、そういうのは知らない。
……またへんなことを考えている。
あのキスの晩以来、日魚子はおかしい。ほんとうにおかしい。
何かのはずみにおかしなことを考えるから、爽とふたりきりになるのがこわい。わかりやすく爽を避けている。今日だって、大地とのデートがあったわけじゃなく、友だちがいない日魚子にほかに誰かと会う予定もなく、でももし早くに帰宅して、爽も帰っていたら一緒にごはんを食べないとおかしい。それがこわいから、ひとりで興味のない映画を見に行った。なぜか巨大怪獣映画。怪獣が街を破壊するさまを二時間鑑賞して、なんだか無駄に疲れて帰ってきた。結局、爽は今日も彼女と会っていたようだから、必要なかったけれど。
爽は最近、帰りが遅い。つきあう女子によって、こういうことはときどきあったから、別にはじめてのことじゃない。帰りが遅い日はだいたいひと月くらい続く。とっかえひっかえする爽のリズム。わかっているのに、もしものときがあったらって思うと二の足を踏む。ローテーブルを挟んだ真向かいで、爽といつもみたいにごはんを食べられる自信がないのだ。
あの晩のことを爽は覚えていないらしい。そもそも熱が四十度近くあって意識がおぼつかなかったし、やっぱり彼女の誰かとまちがえたのだろう。爽にとってあれは事故だった。でも、日魚子はちがう。事故じゃない。だって、爽のキスに日魚子は自分からこたえたのだ。……こわい。あのときの得体の知れない衝動を思いだすと、日魚子はこわくてたまらなくなる。
爽とふたりきりになったら、また同じ風になったら。
考えると、こわくてこわくてたまらなくなる。
そこまで考えてから、ああわたし、あの晩のキスのこと、大地に知られるよりもずっと、爽に知られることのほうがこわいんだってきづいて、愕然とする。
「……ひな?」
目の前で手を振られて、心臓が跳ねる。
思わずあとずさって肩を壁にぶつけた日魚子を、爽はぽかんと見つめた。
「あっ、ええと、ああ、なに?」
「……あいつ、やっぱり放り出したんだけど」
日魚子の動揺を、爽は森也のせいだと思ったようだ。
正直、どうでもよかった。森也のことはもうどうでもよすぎて、あの頃きゅんとした笑い皺のある眦とか、すこし背の曲がった座り方とか、目に入るけれど、むしろ今は爽の存在感のほうが恐怖だし、すこし離れてほしい。
「それより、服きてよ……」
「え?」
「服着て! 痴女のはんたい!」
洗濯機のうえに置いてあった爽のパーカーを押しつけると、「あぁ?」といささか不服そうではあったけれど、爽はそれを頭からかぶった。リビングでは森也が所在なく背を曲げて座っている。背中に戸惑いがのっている。それはそうだろう。森也だって、日魚子のマンションに押しかけたら、いきなりとなりに住んでいる男に水たまりに突き飛ばされるとは思わなかったはずだ。
森也はよくもわるくも、ゆるいひとだと日魚子は思う。
ありとあらゆることにゆるい。不倫を隠していた挙句捨てた女のマンションに押しかけて、きっと泊めてくれるだろうなって思っているあたりがゆるい。爽がいなかったら、森也は憐れっぽく日魚子に迫って、部屋にあがって、あとはキスして、なし崩しにベッドで朝までコースを決めるつもりだったのだろう。ほんとうにゆるい。でも、大地という彼氏がいなかったら、なんだかんだで流されてそうな自分も想像できて、頭が痛くなってくる。日魚子もたいがいゆるい。
そのとき、テーブルにのっていた日魚子のスマホがいきなり振動をはじめた。
「あっ、ひなちゃん」
森也は日魚子を「ひなちゃん」と呼ぶ。
後ろで爽が顔をしかめている。自分と微妙に呼び方がかぶっているのが気に喰わなかったのかもしれない。それぞれの反応を無視して、スマホを取る。そこに表示された名前を見て、日魚子は思わずひっと息を詰めた。
大地はじめ、とある。
「えっ、あ……」
取らないつもりだったのに、動揺のあまり指が滑って応答ボタンを押してしまう。
「――ああ、日魚子?」
まるで清涼剤のような大地の声がスマホ越しに聞こえた。
けれど、いまはよりにもよって、である。よりにもよって、なぜこんなときに。
「ごめん、急に。日魚子って今家いる?」
「えっ、い、いるけど……」
なぜかいやな予感がせりあがる。
大地は日魚子のマンションを知っている。前に一緒に行ったインテリア用品店で台所用品を買ったときに、車でマンションの前まで送ってくれたことがあったのだ。日魚子のマンションは、郵便受けに苗字が出ているタイプではないが、そのときは爽と鉢合わせることを恐れて、エントランスの前で別れた。
「出先で終電逃しちゃってさ、そういえば日魚子のマンション近かったこと思い出して……そっち行ってもいい?」
いや、だめだ。
口から出かかった言葉をのみこむ。
となりで爽がいぶかしげな顔をしている。身振り手振りで大地からの電話であることを伝える。
「あっ、で、でも、風つよいから……わかる? わたしのマンション……」
「わかるよ。今タクシーで……、あっ、着いた」
「着いた!?」
支払いを済ませる気配がしたあと、車のドアの開閉音が聞こえた。端末を持ち替えたらしい大地が「エントランスに入ったよ」と言う。
「えっ」
直後、ぴんぽーん、と呼び鈴が響いて、日魚子は飛び上がった。
オートロック式のマンションなので、大地を入れるには日魚子が部屋の中から鍵を開ける必要がある。とはいえ、ここで鍵を開けないのはいくらなんでもおかしい。解除キーを押しつつ、「あ、でも、部屋汚いから、すぐはちょっとなー」とか言ってみる。
「気にしないってば」とわらう大地はやさしい。
でも今は、気にして!?と叫びたくなる。
一度通話を切り、「そうちゃん!!!」と日魚子は声を上げた。
「へや! はじめさん! そうちゃん! 森也さん!」
言葉がつっかえて、肝心の動詞が出てこない。が、それでおおかたを察したらしく、爽はひとり蚊帳の外で台風情報なんかを見ている森也の首根っこをつかんだ。
「外出るぞ」
「えっ、なんで……」
「いいから!」
戸惑っている風の森也を引きずり、爽が部屋のドアノブに手をかける。
そのとき、ぴんぽーん、と間の抜けた呼び鈴が再び鳴った。
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