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病的な恋のロンド〈8話〉

#創作大賞2024 #恋愛小説部門

 08 爽、帰省する。


 じりじりした日射しがハンドルを握る手の甲を焼く。
 見渡すかぎり連なった車の列に目を向け、爽は口に放り込んだタブレットを噛み砕いた。口内に強烈なミント臭が突き抜ける。緩慢な睡魔は消えない。
「運転代わろうか、そうちゃん」
 助手席に座った日魚子がスマホで渋滞情報を調べつつ声をかける。高崎ジャンクションから二キロの渋滞が続いている。ここから北陸自動車道を経由して新潟まで、まだまだ道のりは遠い。
「つうか、腹減った」とハンドルに腕をのせてつぶやく。
 車内のデジタル時計を見ると、一時を過ぎていた。
「わたし、こんにゃくアイス食べたいなー」
「こんにゃく?」
「こんにゃく粉を使ったアイスなんだって。このあいだテレビでやってたんだけどね――」
 日魚子の説明を聞き流しながら、照りつける八月の陽射しに目を細める。
 八月のお盆休み。爽と日魚子は、新潟の故郷に帰省することにした。正月は帰らない代わりに、お盆に帰省するのがなんとなく毎年のきまりごとのようになっている。爽が勤める食品メーカーはお盆周辺に一週間の夏季休暇が入るので、休みがとりやすいというのもあった。
 ただし、この時期は帰省者たちで高速は半端なく混む。今日も朝五時には日魚子の軽自動車に荷物をのせて家を出たのに、途中でやっぱり渋滞に巻き込まれた。どこの家も考えることは一緒らしい。
 結局、実家に着いたのは夜もどっぷり更けてからだった。
 日魚子のポンコツ車を深木家の車庫のそばに横づける。トランクから荷物を出していると、車の音にきづいたらしく、家のなかから姉の透子《とおこ》がサンダルをつっかけて出てきた。一緒に顔を出した甥の翔太《しょうた》が「おかえりー!」と日魚子のほうに飛びつく。
 三年前に旦那と離婚した透子は、小学二年生になる翔太と深木の家で生活をしている。家賃がかからないで済むのと、介護施設に入所している母親のようすをときどき見に行ける立地だからだという。臨床心理士の資格を持つ透子は、高校でスクールカウンセラーとして働いている。
「遅かったねえ。ていうかあんた、運転、日魚子ちゃんにさせてたの?」
「途中からだよ」
「渋滞のいちばんイラつくところはそうちゃんが運転してくれてましたよー」
 さりげなく日魚子がフォローを入れる。
 透子は爽の五つ年上の三十歳。ひとごみでも目を惹く鋭い美貌の持ち主で、ショートボブとナチュラル系のメイクのせいか、中性的な印象がある。ミステリアスな美女、とたとえる奴がいる。嘘ではないが、爽からすれば、ただの暴君である。
 当然、幼い頃から日魚子のことも知っている。もとは隣にあった芹澤家は、日魚子が上京したのを機に菫も新潟市に移り住んだため、今は空き地になっている。土地の所有はいまだに菫のものらしいが。
 日魚子の母親と爽の父親の不倫は、古い住人なら知っているが、当事者たちはすでにいないし、もうさほど噂にはなっていないようだ。たとえ噂になっていたとしても、それで気を病む性格の姉ではない。
 里帰りしたときは、日魚子は深木家に泊まる。はじめはビジネスホテルを取ると遠慮していたが、透子が泊まっていけと毎度うるさいので、最近では素直に甘えるようになった。
「夕飯は? 食べてきたの?」
「や、食えてない」
「からあげなら余ってるよ。あとはお茶漬けなら作れるかな」
「ひなちゃん、俺のアイス半分あげる」
 日魚子に懐いている翔太が、日魚子の手を引いて家の扉をひらく。
 着替えやノートパソコンが入った小ぶりのトランクを持ちあげて、爽は夏のぬるい夜気のなかにたたずむ我が家を仰ぐ。草むらで気の早い秋の虫が鳴いていた。東京ではまず感じることのない、むっと押し寄せるような草いきれ。
 この家にまつわるすべてが嫌で、爽は高校を卒業するや東京に逃げたのに、結局盆休みのたびに戻ってきている。捨てたようで実は何も捨てられていない。姉も甥も、母親も。日魚子のことだって。
「で、最近どうなのよ、ひなちゃん」
 レンジでチンしたからあげとお茶漬け、それに冷えたビールを透子がテーブルに置く。
 お茶漬けとビールって取り合わせはありなのか? 疑問に思いつつも、出されたものは文句を言わずに食べる。時計は夜九時を回っている。冷蔵庫にあるアイスを翔太は食べたがったが、「もう歯磨きしたからだめ!」と透子が叱ると、「もう一度磨くもん!」と言い張った。ふたりはしばらく歯磨きのことで言い合っていたが、結局翔太が折れ、しぶしぶ部屋に戻っていった。
「あー、今度はなんとか離職せずにやってます」
「ちがう、そっちじゃなくて。彼氏できたんでしょ? メールで言ってたじゃん」
 このふたりはどうやら頻繁にメッセージのやりとりをしているらしい。
 ちなみに爽は、必要なとき以外、絶対姉とは連絡を取らない。
「ああー」とうなずいた日魚子がお茶漬けを無為にかきまわして、へへ、とすこし照れた風にわらう。
「結構いいかんじです」
「えー、何それ」
「らぶらぶです」
「そこ詳しく!」
 女たちは食卓にもうひとり男がいることも忘れて、きゃあきゃあ盛り上がっている。
 日魚子と大地は、六月の終わりからつきあい始めた。二度目のデートで、大地のほうから持ちかけたらしい。思えば、日魚子がつきあう男たちは、いつも日魚子のほうが先に好きになって、せっせと押してくる日魚子にほだされ、なしくずし的につきあうことが多かった。大地は速度こそ負けたが、攻守交代がすばやかった。なんとも大地らしい。
 日魚子は近頃、土日のどちらかはだいたい出かけている。いちいち訊かないが、大地と会っているのだろう。とりあえず今のところ給湯室でふたりがいちゃついているという話は聞かないし、日魚子が謎の壺を買い始めたり、顔に青痣をつくることはないので、爽はほっとしている。
 大地は日魚子とちがってバランス感覚がある。ひとに流されないし、ひとに強要しない。日魚子の男運のわるさも、ついに記録更新をやめたらしい。何はともあれ、日魚子に休日に買いものにつきあわされることもなくなり、爽は爽でまたいつもの生活に戻っている。つまり女をとっかえひっかえしている。こちらはまるで変わらない。
「そうちゃんは、誰かひとりとつきあいたいって思うことはないの?」
 大地とののろけ話で透子と盛り上がったあと、日魚子がふいに尋ねた。
 箸を持ちつつ、行儀悪くスマホアプリでマンションのきなこのようすを確認していた爽は「なんで?」と訊き返す。
「んー、次々相手を替えてると疲れそうだし。そうちゃんって止まれないマグロみたいなんだもん」
「ふーん」
「だめだめ、ひなちゃん。こいつはその場の欲求をテキトーに発散してるだけだから。愛とかないから」
「そうかな」
 お茶漬けを食べながら、日魚子はなんということもないように言った。
「そうちゃんは根っこは愛情深いひとだと思うけれど」
 瞬きをして、爽は日魚子のつむじに目を向ける。それから「――らしいですよ」と姉に口端を上げると、「どこがだよクズ」と容赦のない罵倒が返った。

 深木家では姉がいちばん強い。
 日魚子、姉、爽の順で風呂に入ったあと、掃除を済ませて脱衣所から出ると、居間の電気は落ちていた。日魚子は姉の部屋で寝るらしいので、皆寝室に戻ったのだろう。爽は冷蔵庫から缶ビールを取り出すと、食器棚のうえの籠に入っているつまみのチーズ鱈の袋を持って、縁側に向かう。祖父の代からある深木家は木造平屋建てで、ちいさな庭に面した縁側がある。ひとりでだらだらビールを飲む気でいたが、すでに先客がいた。
「適応能力たけーな」
 風呂上がりの日魚子はセミロングの髪をゴムでくるっと結び、Tシャツにハーフパンツを履いた、ぜんぜん女っ気のない恰好で、足の爪を磨いている。女子力が高いのか低いのか。
「そうちゃん、遅かったね」
「風呂掃除させられてたから」
「えらいねー」
「うちでは姉が正義」
「それはわかる」
 足の爪を磨く日魚子の横顔を眺めながら、こいつと大地って寝たのかな、とちらっと下世話なことを考えた。さすがに訊かない。でも寝てない気がする。大地は爽とちがって、ひとりを長く大事にする性格に見える。ずっと長く大事にするつもりなら、なにも急がなくていい。日魚子はひとを見る目が意外にあったのかもしれない。
「透子ねえさん、わたしすきだなー」
「マジか」
「マジだよ。ふつう、深木家の敷居をまたぐな!って言われてもおかしくないよ、わたしは」
「そうか?」
 確かに日魚子の母親と爽の父親は不倫をしたけど、ふたりの合意でやっていたんだからどちらが悪いという話ではないし、そうでなくても日魚子は菫じゃなくて、菫の娘だ。関係ない。
「この街でわたしの評判よくないしさ。男を誘う的な?」
「ひなは男にふらふらついてくほうだろ」
「ちがう、と言えないのが嘆かわしい」
「自分でわかってんならいいよ」
 不倫をすると、なぜか女が男を誘ったというストーリーが生じるのは謎だ。
 ちいさな街なので、高校時代はまだそういう噂が蔓延していた。日魚子も清廉潔白な恋愛をしていないから、余計に拍車がかかる。日魚子は女に好かれない。男も、まともなやつには忌避される。でも、途中からは爽の女遊びが激しくなったので、どっちもどっちで、あの母親もふしだらだったし、あの父親もふしだらだったんだろう、という方向で話が統一された。日魚子はああ言ったが、この街の人間には爽のほうが悪評が立っていると思う。――月単位で女をとっかえひっかえ、でもぜんぶ身体めあて。そういう人間。きっと爽はこの先も変わらない。
「爽さんも、今日は運転お疲れでしたね」
 爪磨きを終えた日魚子は、急に思い立ったようすで、爽の背中に回った。
 肩を押さえてぐりぐりと肘を入れる。日魚子は肩もみが意外とうまい。
 縁側の軒には、プラスチックの虫よけが吊るされている。となりで風鈴がだらりと伸びている。今日は風がない。雲がない夜空に月が架かり、サンダルが散らかった庭を照らしている。あぁ帰ってきたんだな、と思った。好きでもない、だけどどこかで安堵してしまう我が家に帰ってきた。なんだか肩の力が抜ける。止まらないマグロも泳ぎ疲れたのか?
「あのさ、いつか大地さんにそうちゃんのこと言っていい?」
「……なんで?」
 まどろんでいた目をひらくと、日魚子の手が背にあてられる。
 風呂上がりで火照った身体に日魚子の手はひんやりと感じられた。
「そうちゃんがわたしの大事なひとだからだよ」
 当然のように言った女に、ちいさく咽喉を鳴らす。
「いま、鼻でわらったでしょ」と日魚子が言うので、「そういうのは大地とやれよ」と爽は呆れた顔で肩をすくめた。

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