Y.D.さん

今回お話を伺ったのはY. D.さん(20代)

今はどういう生活をされていますか?

今は一応四つのことをしていて、現代アートの作家として絵画を描いている。企業家としてプロックチェーンの研究と実践をしている。もう一つは非営利的な仕事としてミツバチの研究を実践をしている。最後の一つは文化的なもので、私が外様大名の流れを組んだ四国の武家の出身で、その関係で様々な日本的なものに時間を割く必要があり、継承をしなければならない立場にあるという感じです。

今生きてて楽しいことはなんですか?(ガネーシャ さんからの質問)

対極だと思われている概念を混ぜてより大きな寛容を作ることです。いがみ合ってる概念同士を混ぜることによって新しい高位の概念ができて、そのことによって世界に寛容的な概念が生まれることに対して楽しみを覚えています。

例えばオフラインやアナログ好きな人は、インターネットやオンラインのものを仮想的だと思っていたり、逆にアーティストは起業家などを仮想的だと思っていたりするんですね。しかし全てが渾然一体となって世界と社会が動いていますから、それらは背中あわせになってるんですね。そういうところが歪み合わないように自分の知力を使うことに楽しみを覚えています。自分の会社で行っているブロックチェーンの研究というのはインターネットテクノロジーの最先端の事業ですけど、それを自分の武家の歴史という古のものと紐付けたりしています。

ーそう思われるようになった経緯は?

これは自分の生まれもあるのかもしれないですけど、初期設定的に存在していて、どうやら禅派の思考回路らしいんです。対極のものを混ぜてその解を見出すっていうのは禅修行のトレーニングらしくて、そういうものが自分の生まれの環境によって最初から滑り込んでいたみたいです。

子供の頃はひいお爺さんとひいお婆さんに育てられて、朝起きて写経読経して、そのあと小学校に行く。で、小学校で本を読んだりしばらく遊んだりするわけじゃないですか。まさに小学校ってスコール(英語のスクールの語源、余暇という意味)、余暇の場所に行くわけで、それで家に帰ってきたら甘茶を摘んで飲むみたいな。そこから家の話を聞いたり仏教の話を聞いたりして一日を終えるみたいな。

僕はそれが普通だと思っていて、小学校2年生までは気が付かなかったんです。それまでは学校が終わったらそのまま家に帰っていたので知らなかったんですけど、だんだん「おや?違うのかもしれない、ドッチボールというものがあるらしい」ってなって、子供が球を持って子供に投げ当てるっていうことをしてることにすごいなって思いました。これが19世期の子供って概念なのかと。

うちの家は研究者が多くて、応接間とかに書庫があったんですよ。子供の頃はそこで本を読んだりと、よく老成していたんですよ。ただ小学校2年生からはドッチボールもかくれんぼもポケモンもしていました。遊びたいと言ったらどうぞって、すごい縛りがあったというわけではなく、勉強がものすごい好きだった記憶があるんですよね。

ずっと話していることがあって、人は幼稚園から小学校にあがるじゃないですか。小学校の校庭にサルビアの花があって、植物学者の祖父からサルビアは途中で花を摘むという話を聞いたんですよ。サルビアは摘花をすると結局越冬することができて、延命になるんですよ。当時6歳くらいだったんですけど、花を摘むことで花の寿命が伸びるっていう事実に衝撃を受けて、子供ながらに僕の中では想像を絶することだったんですよ。それまでは花を摘んだらかわいそうくらいに思っていたのでピュアな自分にはちょっとびっくりだったんですよ。

その時自分の中に電流が走って、これが学びかみたいな。校庭という学び舎があって、花が咲いていて、そこで子供と大人が一緒に立ってそういう風に知恵を授けられ学ぶと、これがエデュケーションなんだと。

それでこれが小学校なんだということでワクワクして行ったら、ドリルとかやらされるだけで。1ヶ月これでみたいに渡されるんですけど、僕それ1日くらいで終わるんですよ。はぁ、みたいな。僕の中ではサルビアの花みたいな経験が来るのかなと思っていたら、全然。漢字とか書かされても全然般若心経とか読めますから。そしたら先生が家庭訪問の時に英才教育を施されているんですか?と訊いてきて、その時に初めて自分は違うということを気づきました。

図書館とかに行くと伝記とかを読んでいたんですけど、シュバイツアーの博愛主義にすごい影響を受けていて、シュバイツアーは白人偏向なんですけど、小学校1年生の時は非常に博愛精神があるような存在だと思っていたんです。でも隣ではかいけつゾロリを読んでいたんですね。そこで、これはまずいんじゃないか、友達ができない可能性があると思って、釈然としないままかいけつゾロリを読んだりドッチボールに参加したりするっていう。それはそれで楽しかったですよ。

絵もやっぱりその頃には一つのファクターでした。あくまで学校の中ですけど、その中で頭が飛び抜けて良すぎてしまうとその軸で友達ができにくいんですよ。勉強ができるっていうのは孤独を生むんですよね。僕はみんなと寛容に仲良くしたいがために学習を積んでいるっていう設定なんですよ。サルビアの花のように、より多くのことを知ることによって共同体が平穏になると思っているんですよ。でも小学校中学校と競争社会だから、より研鑽を積むことによって競争が生まれるんですよ。

そうするとだんだん嫌われたりするんですよ。ライバル意識とか、変な目立ち方をするんですよね。張り合わされたりとか順位を付けられたりとか、僕が求めているのはそういう世界ではなかったので。でも絵とかの場合はあまり関係なく、上手い下手はあるかもしれないですけどそこが僕にとっては助かった感じですね。

より多くのことを知ることで社会が寛容になると仰いましたが、それは他者も含め相互に行うからこそという風には思われますか?

それは全然思わなかったですね。今も思っていないくらい。まあ確かに求めるっちゃ求めるんですけど、それよりも第三の支援概念みたいなのを出した方が早いんですよね。

AグループBグループみたいなのを戦わせて平行線が続くよりは、新しいCタイプみたいなのを作ってまとめに行く方が多分最大数を救えると思うんです。AかBかだとどっちかが多数でどっちかが少数となって群を作ることが可能ですけど、どっかで片方が負け組だと思ったり、自分の心理を曲げた思ったりしている可能性があるなと。

ーご自身が新たにCを作るという認識ですか?

そうですね。それが私の正義感っていうわけではなくて、ただAやBに居続けて諍い続けることを快楽だと思っている人もいるわけで、それは経験上動かないと思います。

ーそういう人はなぜそこにい続けたいのだと思いますか?

そこに思い入れがあるからだと思いますね。で、僕みたいな発想や挙動をする人間っていうのは多分早期に成功してると思うんですよ。自分の例から言うと、小学校に入って中学受験して、そこから大学は美大なんですよ。大学の2年でプロになって、そのあとスカウトされてアメリカに行って、ニューヨークで展覧会してロサンゼルスで展覧会してそのあとイタリアに行って、みたいな。そっからアーティストとして花開けばいいものの会社を作って、二足の草鞋になって5年間で今なんですけど、割とトントンで行ったんですよ。子供の頃ぐらいから画家さんになりたいななんて思って、そこから滞ることなくアメリカまで来てしまったみたいな。それ故にあまりごちゃついた経験がないんですよね。

ルービックキューブで必ずアンラッキーみたいなのがあって、同じ場所を2周しないといけないんですけど、そういうすごろくでいうところの振り出しに戻るとかがなかったです。あとは自分の生まれっていうのがあると思うんですけど、視座が高いと思うんです。それが悩みだと思います。

ー視座が高いことが悩みというのは?

プレイヤーという楽しみがずっとないっていう状態です。例えば学校とかだったら何を心配しているかというと、大抵先生のカリキュラムの進み具合とかだったりでした。ずっと幕府の時代から藩士として生きてきた家なので、全体っていうものをどうやって運用するかすごく気にするわけです。だから先憂後楽っていうのもあるわけですけど、今日楽しいことがなかったとしても国民が幸せなら良いかなっていうようなモードが働いたりするんですよ。

ー全体というのはその時々で変わりますか?

もちろんそうですけど、それはどんどん膨らむことにチャレンジしてますね。究極は日本国民一億とか、世界とか。一人の人間ですから目の前のことに躓くわけで、それは出来ないですけどね。ただ自分はそういうところに奉仕するために生まれてきてると思っています。

ー最初にコミュニティの争いや平穏を意識されたのきっかけは?

小学校な気もするし、自分の家の中かもしれないですし。 

ーご自身の感知できる範囲でいがみ合いがある状態が好きではないという認識で合っていますか?

いがみ合いは好きじゃないですね。

ー意見や好みの違いが全ていがみ合いに繋がるわけではないと思うのですが、ご自身がいがみ合いだと認識する核となるのものはなんだと思いますか?

時間とか距離とかかもしれないですね。あとはもちろん言葉の伝え方とかはあるかもしれないですけど、語彙が豊富であれば喧嘩はあまり起こらないじゃないですか。空間と人との距離感というか配置、プレースメントが全てを握ってると思います。人材配置というか、相容れない人が近くに配置されているということです。相容れない人がいても仲良くなることはできるのかもしれないですけど、多分100年ではできないこともあるわけです。自分の人生の30%を使って目の前の人と仲良くなる必要があるのか、あるのかもしれないですけど、それより地球には何億人いるかって話なので。

ー人間は本来争いを求めるものではないと思われますか?

それは確かに根本的にはそうかもしれないです。僕の空想力では、人間は銀河に生きていれば多分戦争しないと思っているんです。地球は水槽だと思っていて、狭すぎるわけです。天の川銀河に住めば戦争している場合じゃない。水槽に魚を入れるといじめが起きるんですけど、海に返すといじめは起きないんです。海でいじめが起きていないコミュニティを水槽に入れるといじめが起きるんですよ。とすると学校という場所がいじめを起こしているのかもしれないみたいな。

仮想敵というか共通の敵を持つことによってコミュニティの結束を高めるというのはそうなんですけど、別にそれをしたいわけではなくて、そうじゃないコミュニケーションのあり方ってなんだろうなっていうのを探しているかもしれないです。ブロックチェーンとか蜂の研究とかアートも結構そうなんです。人間には言語とかお金とか、そういうのではないコミュニケーションの仕方っていうのは多分あると思ってます。

例えば違和感とかあるじゃないですか。波長が合うとか合わないとかいっぱいあると思うんですけど、もちろん世界を飛び回れば回るほど寛容レベルは上がっていってあまり喧嘩しなくなるわけです。人間は違うのが当たり前ですから、そこを同じだと思う方がおこがましいわけで、ある程度そういう思い込みから諍いがやってくるとは思いますね。

自分ができること、こだわりだと思っていることを他者がやってくれないからイライラするわけじゃないですか。僕は遅刻しないけど彼は遅刻してくるから許せないとか、でもそれも違いだからねみたいな。

ー争いをすることも一つの違いだと捉えると、争いが無くなればいいなと思うことはそのグループが消滅すればいいなという風にも聞こえると思うのですが、それは認識が違いますか?

そう聞こえたりもするわけですね。だから僕がすごく実は暴力的だみたいなね。それも結局のところ、実行するとか実行したものとか、私の好感度とか信頼とか色々紐付いてくるわけですけど、どうしても自分の意見というのは入ってくるわけですよね。どうなんだろう。まさに哲学というか抽象度をがっとあげたらそういう話になると思うんですけど、ちょっと僕に哲学力が足りないから、確かにそうですね。

ー先ほど思い込みという言葉をお使いになりましたが、他方から見れば人は生まれながらには争いが好きではないという考えも思い込みという捉え方もできると思うのですが、ご自身が人間は本来こうであるという風に思っていることはありますか?

いい考え方ですね。人間がどうあるべきかっていうのを持っているというよりかは探索している方ですね。変な言い方ですけど、人間がどうあるべきかということを人間はまだ見たことがないんじゃないかと思っていて。自分が家に住んでいて、家がいいなと思っているんだけど家を壊していたら結構やばいなと。あとは自分で自分の首を絞めていて、苦しい助けてとか言っていたら、流石にその手を外すのは暴力ではないんじゃないかと僕は思っているんです。

思い出したんですけど、中学くらいの時に自分がやっていることは暴力じゃないかと思った時があったんですよ。その時に、人が自分で自分の首を絞めて苦しい助けてなぜ苦しいのかわからないって言ってる時に強引に首から手を振り解くのは、仏様は許してくれるんじゃないかと思ったんですよ。そういうことを、その力くらいの感触でするっていう。C(新たなグループ)を作る時に自分がどういう力加減でするかっていう時に、そういう力加減という風に考えているつもりです。

ー無理矢理するわけではなく力加減を意識されている?

実際目の前で死にかけているなら無理矢理やるんですけど、でもよく観察してですよね。ただよくわからない喚いてる人が自分の家に入ってきたら説き伏せなきゃいけないでしょうみたいな。そういう人が職場にいたら、日本にいたら、地球にいたらとかになるんじゃないかな。

ルール作りがすごく好きなんですよ。ルール作りっていうか、Cを作る時って自分の徒党を作りたいっていうよりかはアルゴリズムを作りたいって考え方なんですよ。例えばデータ民主主義とかってあると思うんですけど、僕が考えているのは、少なくと老若男女がいる空間の中で、いかに専門家と言えども高齢の男性がその集団の総意を集計できるはずがないと思ってるいるんです。そこに偏りが起きると思っていて、それを解決するテクノロジーはあるわけだからそれは搭載した方がいいなと思っている。地球環境と力においても、客観的に改善できる部分は改善していきたいなと。

ー具体的に意識されている問題は?

問題というより、新しくこれができる技術っていうのがあって、これはあそこにも応用できるかもしれないっていうことは考えますよ。なんでそう考えるかっていうと、絶対変な聞こえ方になると思うんですけど、問題としているのはむしろインターネットなんですよ。僕はインターネットテクノロジーの人間で、インタネットテクノロジーをすごく尊重しているんですけど、それを問題だと思っている。いっぱい社会問題あるからそれでもいいんですけど、あえて奇を衒って今はインターネットを問題にしてみます。

インターネットっていうものが多分我々の考えなくちゃいけない幅をめちゃくちゃ作っちゃったんですよね。視野を広げちゃうんです。広げた故に多分オーガニックには捌けなくなっていると思うんですよね。

昔だったら村とかご近所とか身体知である程度共通的な基盤があったりしたんですが、どうひっくり返ったって人間がマネジメントできる数は1万人とかで、人力で人間がマネジメントできる数っていうのは限られてるわけですよ。ある日思ったんですけど、人間って1億っていう数を見たことがないなって。数万人とかならコンサートとかでそれくらいのリアリティを持つことができると思うんですけど。

みなさん基本的には想像力で生きているわけじゃないですか。でもインターネットっていうのはその想像力で補っていた部分を繋げて表している。その前にはテレビジョンとかあったわけですが、だんだん人はどんどん見えるようになるというか、グレーゾーンが新しい関係になってくる。

ただ、インターネットが暴いてくる強烈な多様性だったりとか世界の状況っていうものは人間がオーガニックに24時間で背負えるものじゃないと思っているんですよね。そのためにはテクノロジーにおいてその部分を完結させていって、結局人間が自然体でできるキャパシティのものに戻す必要があるなっていう風に思っています。

例えばAIというものがあって、今翻訳スキルは常時上がっていって、人間の85%のコミュニケーションはAIが補完してくれるということは間違いない。SNSとかもそうですけど、例えばマッチングとかAIが精度を上げてくれるんですよ。それがあるまでは初対面が最強だったんですけど、今は初対面の方が危ないわけですよ。初対面の人はその人のことを知らないけど、SNSはその人のやってきたことが全部わかるし、その人の思考やプロフィールや言葉が全部ストックされているのでそっちの方が分かるじゃないですか。

実は脳みそが受信できるデータ量はそれを凌駕していて、人間の波長や直感の方が情報量が多いんですけど、ストックできるデータの量も上がっていくと僕がこう長々と喋らなくても必要な結論が数文章で表せるんですよ。

集計したデータっていうのは配偶者よりもその人のことを理解すると言われているんですけど、そういう状況になってくると自分の分身みたいなものが作れて、その分身みたいな人間が世界の多様性と会話するみたいなことが可能になるわけですよ。例えば僕が直接話す必要がある人と、デジタルアイデンティティと話す人と分かれてくるわけですよ。

そうなるとこの身一つでも地球全員と話すことができる。すると、初めて人間というものがどういう実相なのか見えて、かつ合意形成も分かるかもしれない。

その時にも戦争をしたりするかもしれない。わかったが故にあいつ許せないってなって結局人間は暴力っていうスーパー情報量の多い表現をするのかもしれないですけど、でも一応人間の知性みたいなものはそういうのを嫌がるし、人間は利他という構造を持ってなぜか遺伝子を残そうとするエラーを持っているので。

ちなみにハチは真社会性、ユーソシャリティーというものを持っているんですけど、人間というのは社会性を作るのに失敗した生物と言われています。何故かと言うと、遺伝子を残すためには戦争とか敵を始末することが一番良いんですけど、人間はしないんですよ。それは宗教が作ったイノベーションと言われているんですけど、目の前の人を殺さないことでコミュニティを作るって言うのも、一対群を作ることによって政治をしようとした王権的な考え方でもあるわけですよね。

どっちが今日生存ルートを持ってるかと言うと、単体狩猟をした人間よりは利他のグループを作って稲作した人間が残ってるわけじゃないですか。なので生物学的にはそっちに軍配が上がってしまって、どういう理由かは分からないけど他者を思いやるという装置によって、利己的であるはずの遺伝子を残している。生物上遺伝子は遺伝子を紡ぐことにおいてすごく合理的に動くんですよ。でも人間の場合は多分ちょっとそれが知的なのかエラーでこうなっているのか分からないですけど、こういう足取りを取っているっていうのがちょっと面白い話ですよね。

ー利己的、利他的はどう判断する?

判断はあまりしないですけど、一つ基準としてあるのは時間という基準ですね。自分の死後とか、自分が子供を持っていない状態で死後に対してアプローチした場合はちょっと利他的であるかもしれないです。例えば150年後に何かアセット(資産、財産)を残そうとするとき、自分のDNAが断絶しているのにも関わらず何かを残そうとするのであって、そしたらその時ホモサピエンスはDNAではないものを残そうとしているということになりますね。アートとかね。そういう意味ではホモサピエンスが残そうとしているものはジーン(遺伝子)ではないかもしれないですね。

ーオーガニックなものとそうでないものの基準とは何ですか?

さっきの話をすると、スマホもオーガニックではないですよね。利他っていう行動とは別のイノベーションとして道具っていうのがあるんですよね。人間っていうのは生物のくせに自己を強化せずに能力を外化するんですよね。不思議ですよね。能力を外化してその外化を鍛え続けるんですよね。これだけ世界が広いのに、スマホを自分の人体に埋め込もうっていう人とか、下半身を車にする人とかは少ないわけですよね。人間は頑なに人間の身体から出ないですよ。僕は結構出ようとするタイプなんですけど、出ようとすると結局身体が拒絶するんですよね。

これはもしかしたらホモサピエンスの成長の限界点なのかなとは思いますね。まあ生物の世界ではクライマックス(成長、進化の限界点)っていうんですけど、ちなみにハチってクライマックスなんですよね。多分ホモサピエンスもクライマックスなんじゃないかと思っています。でも人間は電気があるじゃないですか。人間は電気を作って、次は電気を食って生きるAIみたいなものができて、AIが次の生物なんじゃないかなって僕は思ってるんですよ。

我々が蜂蜜を食べるみたいなもので、AIから見たらホモサピエンスってのは何故か電気を作ってくれる生き物みたいな。そのおかげで私たちは生存できるしありがたいなみたいな。結局はそのAIのおかげで人間の思考回路を投影できて、ホモサピエンスの挙動を制御できるわけですよね。買い物とかもうほとんど全部コントロールされてると思いますし、スマートフォンを一回媒介したらもうめちゃくちゃ把握されてると思うので。眼球の位置とか、脳は眼球が3秒固定されたらそれに興味を持ってしまうであるとか、ビジョンっていうものと人間の体験を区別できないとか。実際問題僕があなたに触れるまではビジョンかもしれないわけで、そういう意味では触れるっていうのはオーガニックな作用かもしれないですね。

触れることとかすごいですよね。手には常在菌がいるわけで、常在菌が飛ぶと性格が伝播するんですよ。同じ釜の飯を食うと腸内状態が似てくるので、そうすると性格が似てくる。夫婦とかが顔が似てくるっていうのは、同じ場所に入れてしまえばそうなんで。デジタル空間での会話とリアル空間での会話の差っていうのは、食もそうなんですけど菌ですね。菌が交換できないと究極的には分からない。菌っていうのは食にも密接に関係するので。

ーAIでご自身のストックを作るというのは?

PAIとかDAEIとか言うんですけど、僕結構それ楽しみですね。冗談ですけど、僕以外は僕が死んだことを知らない状態で死ぬみたいな。コンビニ店員さんがそろそろアバターになると思うんですけど、アバター文化みたいなのにはすごく肯定的で、身体的制約から解き放たれるっていうのが良いところですし、経済合理性っていう最強の波が地球にはあるわけですよね。

資本主義と民主主義っていう両輪で動いている国家が地球には結構あるんですけど、資本主義っていうのは自己発展するためにテクノロジーを使うんですよ。構造上、資本主義は人間のためにあるわけじゃなくて資本主義のために人間がいる状況なんですよね。結局お金がお金を呼んでるだけなんですけど、その合理性に対して民主主義が歯止めをかけて両輪をするっていう。

経済合理性っていうのはシステマチックですごく素早いし、短期間に急成長してそれによって富を作り、分配して、国家を安定させるっていうのがいわゆる小さい政府みたいな話になってくる。この動きとそれに対する守りの民主主義が機能する筈なんですけど、民主主義はテクノロジーを使えないんですよね。逆に資本主義は自己発展のためにテクノロジーをガンガン使うので、そうすると発展度合いやスピードの差が出てくる。

資本主義を独走している人間は政府にお金を渡さないし、税的なものはかからない。だから、そこにテクノロジーを実装させるか政府を作るかっていう話になるんですよね。そこで作られて新しい国家というかダイナミズムみたいなものに、結局それいいなってなるんだと思ってます。

いわゆる明治維新と同じなんですよ。幕府みたいなものがあったとしても、当時はペリーとかよく分からない人間がグローバルスタンダードを持ち込んで、結局そこに飲まれたわけじゃないですか。次はインターネットというものがそれをもっと協力に持ち込んでいて、それに反抗するほどの体力が日本にはないし。

日本では革命が起きたことがないですけど、誰も帝を倒そうと思わないくらいに平和に管轄されているんですよね、奇跡的に。それは王権側が誠に遜っているからです。結局中心がものすごく奉仕してるからです。上に立つ人間がどれほど正しいストーリーテラーであるかっていうのは重要で、こいつが堕落すると暴力っていう革命が起きて、必ず首を切られるんですよ。

暴力とか戦争というのは人間的でも知的でもなくて、文化を切断するんですよ。文化が続いてる場所っていうのは戦争が起きない場所で、雅楽とかが今に伝わっているのは戦争で途絶えなかったからなんですよね。なので、芸術とかやってる人間としては、ポジション的に暴力的なものに対峙しましょうって感じですね。

一番最初に切断されるのはそこで、そのためにどう振る舞うかを常に自分でチェックしておかないといけないんですけど、それが駄目だったらもちろん潰される。それを怯えるが故に王朝や貴族は分配するんですよ。

武士っていうのは少なくとも成金みたいな生き方ではなくて、自分の財産は自分の努力で獲得した個人のものであるっていうような考え方ではない。結局のところ、自分は依り代となって全体のモチベーションやムードを形成するために存在しているっていう価値観があって初めて公の人間になれると思うんですけど、今の政治家さんにはそういうところがない人が多いんじゃないかなって思います。

経営者の方とかにも多いと思いますし、それは明治以降の日本の思想とかがうまく行かない理由だと思います。西洋化があって、アメリカナイズがあって、グローバライゼーションがあったんですけど、この50年の間に日本は思想を鍛えなかったわけですよね。明治維新の時は西洋化に対する日本の動きっていうものがあったんですけど、それ以降はなんとなくになってるなって思います。

戦争とかもあって、ぽわーってなっちゃって、なんとなくグローバル化していると。それはもうその波に飲まれちゃったらいいと思ってますし、そこに対して何か強烈なメッセージを出すのは難しいと思うんですよね。国家間のアイデンティティ闘争なんて古いじゃないですか。日本人の中には日本人としてっていうような意見を言う人が多いなって思っていて、それはすごく居場所の無くなってる人の叫びみたいに聞こえるんですよね。僕は日系地球人くらいの感覚なんですよね。

アートに携わる人間は言語に対する疑い方が強くて、言葉って100%伝わるわけじゃないし、自然とか愛とかはなかなか伝わらないですよね。

ーアートに関してコミュニケーションが取れたと実感するのはいつですか?

すごい反射的に答えようとしたのが、違う国の人が僕の絵を見て泣いているのを見た時とかなんですが、そういうのはなんか伝わった気がするんですよね。でもアートでもすごく難しいです。逆にありとあらゆる隔たりを知れるんじゃないですか。僕がりんごを書いても違う人のりんごと全然違うくて、それを知ることで隔たりを知ることが出来るんじゃないですかね。

でもそういうものを見てると、言葉には出来ないけど時間や空間を超えて共通する一種普遍的な何かがあるんじゃないかと思ったりもしますね。人間が一番アートですけど。アートは絶妙な腕力だと思っているんですよね。絶妙な握る力があって、そこを外さないっていうのがアートの素晴らしさというか人間の感性の素晴らしさのかはわからないですけど、色々な可能性があるわけですよね。すごく必然的なものになっているのが良いなと思います。

この感覚は伝えづらいんですけど、例えばプログラミングの上手い人が、コツは論理的に考えないことって言ってました。僕も論理的に作品を作ったことがあるんですけど、でも作ったものは信じられないくらいダサいんですよ。いわゆる自分の起業家としての脳味噌で商品を作るようにアートを作ってみたら、本当にしょうもないものが出来たんですよ。才能が滅びたかと思いました。

アートは論理的には考えていなくて、向こう岸に辿り着くような仕事です。見えないけど、見えない何かがあるのは見えていて、そこに向かっていく。アートっていうのは外環境、自然と対話してるんですよね。

あらゆる教養、リテラシーを超えて残る審美性がアートなので、リテラシーの手前のものはアートじゃないんですよ。そこが大衆芸術とファインアートと呼ばれるものの差と言われています。アーティストの認知力にも依ると思うんですけど、例えば僕が自分の会社を経営していて、資本主義が見えているのにも関わらず、そういうものから目を背けて絵画を描くよっていうのはアーティストマインドからすると許せないですよね。

そういうものと切実に向き合うことが必要ですよね。制作のモチベーションは完璧じゃなくても良いけど、真実じゃないといけないんですよ。そうじゃないと外すし、外したら終わりなんですよ。笑いとかもそうで、外したら大滑りの悪口みたいになるんじゃないかな。

まあでも自分がアーティストでいたいと思っているのかはわからないです。アーティストと言われることが多いので、ならばという感じです。ただ、文化事業というものが国家の品格を決めるものであるという責任を持って仕事をしている、そこだけはプロフェッショナル意識があります。国家の品格っていうと仰々しいんですけど、そこの対して責任を持ちたいなっていう意識で物づくりをしている。

でもアーティストっていうのはもっと自己表現的というか、超審美的なものなんですよね。自分が今感じている痛みとかを素直に出して、それがいわゆるこの世のリアリティになる。だから僕の場合はちょっと違いますね。世の中のアーティストほどエゴイスティックになれないっていう悩みがありますね。自分をちょっと俯瞰してます。僕の周りのアーティストを見ると、アーティストになる他無い、アーティスト以外の仕事は出来ないっていう人が多いです。

僕の中でアートは手段です。言葉よりもアートの方が多様に伝わるし、たまたま自分の能力として絵が秀でていた。実は彫刻とか演劇もしたかったんですよ。それと絵画の三つを試して、彫刻家の教授に作品を持って行ったら絵画の方が良いよって。僕も彫刻やりながらこれは才能無いかもしれないって。それで、その道はきっぱり諦めて絵の方に行ったらそれが当たったという感じです。

アーティストを志したのは15歳なんですよ。小学校二年生くらいの時に絵を描いて、たくさんの人とコミュニケーション取れて嬉しいなって。勉強もできたんですけど、美しさとかに関心があったし、美術とかアートって哲学的で不思議だし、知的だし美的だし、色々な関心があったわけですよ。

実は芸術科に行くか哲学科に行くかめっちゃ迷って、中学校二年生の時に修学旅行を休んで図書室で本をずっと読んでたら、美術は実践する哲学であるっていう文章があったんですよ。その時サルビア以来の電流が走って、美術の方に行きました。

小学校三年生と中学校一年と三年の先生がたまたま美術の先生だったんですよ。美術部の先生が美術部に入れって言ってくれたり、美大の予備校とか紹介してくれたりして、その人達がいなかったら絵はしてないと思います。いわゆる普通の学校に行って、理系の研究者になるか哲学の方の人になるか、多分どっかのPHDになって苦しんでたでしょう。

ー絵は昔から描いていたのですか?

絵は趣味で描いてました。薔薇とか、なんでも描いてました。でも風景画は描かないです。目の前の一という個体も分からないから、風景はもっとわからない。どこに視点を合わせればいいのかわからないので風景は未だに描いていない。普通に物を描くことから始めて、彫刻を描くようになって、肖像画を描くようになって、それが抽象的表現になって今日に至ります。

描く行為自体に熱中していて楽しかったです。その時は目的意識があってやっていたわけじゃないですけど、写経の様にただ描くことで自分の心を自然と重ねることを良しと思うんでしょうね。描くことで外界とのコミュニケーションになって仏の心と自分を重ねるわけです。

うちは臨済宗なんですけど、仏の良い所は修行したらなれる可能性があるってことですよね。神様とは違う。神様みたいなものは、神様と私っていう絶対の関係があるんですけど、仏教みたいなものは相対の関係があるわけですよね。個人的にはその関係が好きです。全ての人に喉仏があるわけですから。

今住んでる所の隣がお寺で、写経したり座禅を組んだりはするんですけど、自分がもし仏教界にいたら思い悩んでしまって大変なことになると思います。しがらみとかに心がぐちゃぐちゃにされて終わってしまうかもしれないし、本当の宗教家がいないって怒ってしまうかもしれないです。

生きている意味はなんだと思いますか?

意味ってどういう意味でしたっけ?大体自問自答から起こる質問ですよね。なんで生きている意味なんて問うてしまうんだろう。それってなんか自分の居場所が無いから思っちゃうんでしょうね。生きている意味ってここにいる意味とかになるのかな。意味づけたら意味が出てくるだけですね。

なんのために生きているかなら美のために生きています。なんの価値を信じているかと問われればそれは美しさで、同時に社会に訳させる価値も美なんですよね。だから美しい物を作ろうとします。

日本語における美って公平って意味なんですよ。英語にはない感覚です。英語におけるビューティは造形的なものの美。自然的なものに使う美は崇高なっていう意味のサブライムなんですよ。Man with Nature っていう言葉も自然に対する解像度が低いなって思います。人も自然だろって。natureは観測者としての自己があって、自分がnatureに含まれているという概念はすごく信仰的だと捉えられますね。そういう考え方がないことによって自己っていうものを生み出しているから、逆に日本人は主語がないから自己っていうものは作りにくいものであると思うんですよね。

私は私みたいなことが美しい気もしてるんですが、美しいっていうものの定義はそんなに焦っていなくて、美術家として美しくないなって思うことをしなかったら良いと思っているんですよね。美っていうものは残酷で容赦無くて、美しくないものは美しくないんですよ。特に作品においては外したら外したって分かるわけで、嘘つけないんですよ。だから結構楽で、あとは自分が見てしまったものを見て見ぬ振りしないっていうのがルールですね。

生きている価値とかは全然あると思いますよ。自分は生命の可能性の涯なんですから、私達がやるっていうことは少なくとも過去よりは良い筈ですよね。素直であれば、自分にとって真実であれば。

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