卓越性の追求とは一流の存在になろうとする試み

最近東大の入学式祝辞が話題になっていたので、自分の世代だとどうだったんだろうと読み返してみた(正直何も覚えていなかった、、、すいません)

今の自分にとっては示唆深く、また最近考えていたことにも通じるものがあったのでここにメモしておく。入学生向けのスピーチだけど、「視座を落とすな」という本筋はどこの世界でもあてはまる普遍的なものだと思う。

初心、それを貫く意志の力が自己の成長に大きく依存すること

卓越性の追求とは知的活動においてであれ、実践的活動においてであれ、一流の存在になろうとする試みであり、自らをあらゆる面で不断に鍛え、自らの可能性を大きくする努力をするということ

「すごい」人間や「かなわない」人間に出会うという体験が重要なこと

そして、誰を「すごい」「かなわないか」と思うかどうか自体は、卓越性の追求という感覚の強さによること。卓越性の追求への感覚が麻痺していると、誰も「すごい」「かなわない」と思えない(茹でガエルになる)

そして、思うかどうかだけで話は終わってはいけない。どういうところに身を置くのか、そう思える人たちに触れ続ける場にいるのかどうか、それこそが卓越性への追求の意志(一流の存在になろうとする意志)だと思う。

大学生活は人生の中で最も自由な生活を享受できる時期であり、他人の掣肘を受けることなく、伸び伸びと自らの可能性を験すことができる稀有の時期です。しかしそれだけに、自らをどのような存在にしていくかについて各人が全面的な責任を負わなければならないことを当然含んでいます。他人のせいや運不運のせいにして弁解できる余地が少ない人生の時期なのです。極論すれば、四年後皆さんがどうなっているかは、皆さんの初心の内容と皆さんの意志にほとんど全てかかっています。こうした時期を送ることができるということは実に素晴らしいことでありますが、同時にそれが自らの志と人間としてのあり方に深く関わることを肝に銘じ、人生一度のこのチャンスを大事に、そして思い切って活用していただきたい。
私は今日ここで皆さんには是非とも卓越性の追求を課題にしていただきたいということを述べたいと思います。卓越性の追求と言うとエリート主義や傲慢さを推奨することのように思う人もいるかも知れません。しかし、大した能力も力量もないのに他人を踏み台にして傲慢な態度をとったり、ふんぞり返ったりして生活する態度は卓越性への感覚とは全く関係ありません。あるいはそういう意味でしか卓越性を理解できないところにどうにもならない精神的貧しさがあるといって過言ではありません。卓越性の追求はそれが一人の人間の真摯な取り組みである以上、誰の迷惑にもならないし、やがてはさまざまな形で社会を裨益することにつながるものです。
卓越性の追求とは知的活動においてであれ、実践的活動においてであれ、一流の存在になろうとする試みであります。それは自らをあらゆる面で不断に鍛え、自らの可能性を大きくする努力と深く結びついています。あるいは、自らを「耕す」ことに人一倍真剣に取り組むことであるといってよいでしょう。つまりは自らを大切にすることに精神的につながります。逆に、自らを「耕す」のを怠った人間は精神に野草が生え、荒廃し、自分が何者であるかが分からなくなるのは早晩明らかです。自らが何者であるかが分からない人間に出来ることは付和雷同と右顧左眄でしかありません。
若し、皆さんが「すごい」人間や「かなわない」人間に出会うという体験をしなかったとすれば、それはこの卓越性の追求という感覚が初めから皆さんにおいて摩滅していたに違いないのであって、私としてはその人の不幸に同情を禁じ得ません。人間には所詮「見えるものしか見えない」のであり、十代にしてこうした感覚が麻痺していたとすれば、その後の人生はさぞかし寂寥たるものであろうと思います。
誤解のないように言えば、こうした卓越性の追求は社会的な意味での出世や成功を些かも保証するものではありません。社会における出世や成功はさまざまな偶然の産物であり、個人の力で左右できる範囲は限られています。そもそも社会的成功は希少性を特徴としており、全ての人間がそれに与ることは出来ないということを前提にしています。その上、卓越性という積極的な特徴が乏しいにもかかわらず、「他に人がいない」ということで出世する人の例が珍しくないのがこの世の中です。しかしながら、卓越性の追求に興味もなければ関心もない人間が指導的地位に立つ組織や社会が素晴らしいとは誰も考えないことでしょう。更にそうした人間がふんぞり返り、傲慢さを撒き散らす社会が不愉快なことは言うまでもありません。
こうした事態が起こらないようにする唯一の方策は、卓越性の追求にこだわる人間たちが数多く存在するような社会を作ることです。それは卓越性に対して正常な関心と感覚を持つ社会になることに他なりません。そういう社会であれば、「他に人がいない」といった不毛な選択に曖昧に身を委ね続ける必要はなくなります。卓越性を追求する人間が社会的成功をおさめることができるわけではありませんが、社会的成功をおさめる人間には少なくとも卓越性の追求とその意味について正当な感覚を持っていてもらわなければなりません。民主的な社会は卓越性の追求可能性を万人に開いたと考えられますが、同時に、それは卓越性に対する感覚が慢性的に摩滅させる可能性を含んだ社会であることも直視しなければなりません。

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